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人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、天正13年11月17日(1585年1月6日)に佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の戦い。室町幕府の崩壊による奥州探題の権威の喪失や伊達晴宗の死去、天正12年の蘆名盛隆死去後の蘆名家の混迷と家督相続問題、天正13年(1585年)5月の伊達政宗の蘆名攻め(関柴合戦)での敗報、羽柴秀吉の関白就任による朝廷の権威の回復、晴宗の次男〔伊達晴宗の長男は岩城親隆。岩城常隆の父。〕伊達輝宗の早急な死による伊達家中の世代交代〔この戦における伊達政宗(米沢城)と岩城常隆(大館城)の関係はともに奥州探題・伊達晴宗の孫であり同年代。最上義光(山形城)と佐竹義重(太田城)から見ればともに甥同士の戦いである。〕が重なり、伊達氏の洞が佐竹氏、岩城氏、二階堂氏、蘆名氏、白河結城氏、石川氏らの洞により取って代わられる機会が生じたことで起きた戦いである。 == 背景 == 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、織田信長が天下統一を目前にして倒れた。伊達輝宗は南奥諸大名の洞の中央集権化をはかり、相馬盛胤・義胤を攻め祖父・伊達稙宗〔相馬盛胤から見ても母方の祖父である。〕の隠居領・伊具郡を奪還した。 天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆が死去し、当主を失った蘆名家は内紛の危機に直面した。このとき塩松領の小浜城主・大内定綱は政宗の正室・愛姫の実家である田村氏と対立を深めていた。塩松領は伊達領と二本松領、田村領、相馬領に囲まれた緩衝地帯である。同10月、父・輝宗から家督を譲られた伊達政宗は定綱に伊達家への臣従を迫った。定綱は臣従を拒み、蘆名家を頼って反旗を翻した。 天正13年(1585年)5月、政宗は蘆名氏を攻め敗北を喫した。7月、羽柴秀吉が関白となり豊臣姓を名乗った。8月、政宗は大内定綱を塩松領に攻め、定綱は二本松領、蘆名領へ逃れた。政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城主二本松義継に対しても攻撃を加え、義継は輝宗の斡旋を受けて降伏した。 10月8日、義継は宮森城にて会談中に輝宗を拉致し、政宗の追っ手によって輝宗もろとも討たれた。怒り狂った政宗は父の初七日が明けると13,000の兵を率いて二本松城を攻めた。二本松氏は義継の遺児・国王丸を擁して籠城戦を展開した。 11月10日、二本松氏救援のため佐竹義重・義宣〔このとき佐竹義重正室は、伊達晴宗の娘。伊達政宗からみた叔母であるため連合勢の引き揚げはこの女性が間に入って陳謝したためともいわれる。〕・蘆名亀王丸〔このとき蘆名亀王丸は二階堂盛義の孫。蘆名盛隆の嫡男。二階堂盛義の嫡男・盛隆が蘆名家の家督を相続したことにより、蘆名領・二階堂領は一体化されていた。〕・二階堂阿南〔このとき二階堂阿南は二階堂盛義の正室。蘆名盛隆の母。蘆名亀王丸の祖母。須賀川城主。〕・岩城常隆〔このとき岩城常隆正室は二階堂盛義の娘。母は佐竹義重の妹。〕・石川昭光〔このとき石川昭光は佐竹義重の婿。伊達晴宗の実子・伊達輝宗の弟。〕・白川義親・義広〔白河郡、白川郡、石川郡 (福島県)をめぐる蘆名氏と佐竹氏の折衝の末、義親は蘆名盛氏の娘と離縁していた。天正6年(1578年)の和議の後、白川の名跡は佐竹義重の次男・義広が継ぎ(早稲田大学白河文書『白河市史五』)、義親は佐竹義重の養女が与えられて佐竹一門となったという(「戸部一閑覚書」「佐竹旧記」)。〕・相馬義胤ら南奥諸大名〔連合軍側の大名家当主はそれぞれ不出馬という説もある。〕が挙兵・派兵して須賀川まで進出した。連合軍接近との報を受けた政宗は、二本松城の包囲部隊を残して自軍の諸城を固めた上で、自らは主力7,000を率いて迎撃のため岩角城を経て本宮城に入った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「人取橋の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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