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人見吉之助 : ミニ英和和英辞書
人見吉之助[ひとみ きちのすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

人見吉之助 : ウィキペディア日本語版
人見吉之助[ひとみ きちのすけ]
人見 吉之助(ひとみ きちのすけ、1898年10月31日 - 没年不明)は、日本の映画監督脚本家である。昭和初年のマキノ・プロダクションで活躍、脚本家・八田尚之とのコンビによる現代劇を得意とした。
== 来歴・人物 ==
京都市西陣に生まれる。父・勘助は、牧野省三の幼少のころからの親友で、服部佐一郎茨木宗一新実八郎兵衛とともにつねに牧野を援助した人物である。人見吉之助は京都市立第二商業学校(のちの京都市立西陣商業高等学校、現在廃校)を卒業して上京、慶應義塾大学予科に入学するも、1年次で中退、高島屋装飾部に入社した〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「人見吉之助」の項(p.331)を参照。同項執筆は岸松雄。〕。
その後、映画界入りの希望を父に申し入れ、1925年(大正14年)、牧野が同年設立したマキノ・プロダクションに入社、牧野および沼田紅緑の助監督となった。翌1926年(大正15年)1月に公開された沼田監督の『男達』と『走馬燈』の2作の脚本を書き、同年4月には27歳で監督に昇進、人見のオリジナル脚本による『わすれ髪』で監督としてでビュー、同作は同年5月6日に公開された〔。
監督デビュー以来、23本を監督した時点の1929年(昭和4年)7月25日に牧野省三が死去、没後50日を経た同年9月に牧野の長男・マキノ正博を中心とする新体制が発表され、人見は「監督部」に名をつらねた〔立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所 所員録 」の記述を参照。〕。以降、現代劇の主力として10本を監督したが、33歳を目前にした1931年(昭和6年)、同社は倒産して解散、それ以来の人見の消息はわからなくなった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「人見吉之助」の詳細全文を読む




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