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仁和地震(にんなじしん)は平安時代前期に起きた南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。 この地震の9年前(878年)には関東地方で大地震(相模・武蔵地震)、18年前(869年)には三陸沖を震源とする甚大な津波被害を伴った巨大地震である貞観地震があった。 == 地震の記録 == 仁和3年7月30日申刻(ユリウス暦887年8月22日16時ごろ、グレゴリオ暦887年8月26日)、五畿七道諸国を揺るがす大地震が発生した。 『日本三代実録』には、京都において諸司の舎屋や民家の多くが潰れ死者も出し、五畿七道諸国に亘り官舎の倒壊、津波による多数の溺死者を出したとする記録がある。余震は8月末ごろまで記録されている〔宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年〕。 特に摂津において津波の被害が甚大であったとされ、京都では長い地震動があったなど近畿地方の震害は宝永地震をも上回る様相を呈している。淡路島の洲本藩士が編纂した郷土史である『味地草』には仁和三年七月の地震により海に突出していた砂嘴が津波で失われたことが記される〔寒川旭 『地震の日本史 -大地は何を語るのか-』 中公新書、2007年〕。一方で、土佐における津波や大地の沈降・隆起など記録が確認されておらず、高知県には白鳳地震についての口碑に残る言い伝えはいくつか存在するが、仁和地震によるものが確認されていない〔沢村武雄 『日本の地震と津波 -南海道を中心に-』 高知新聞社、1967年〕〔間城龍男 『宝永大地震 -土佐最大の被害地震-』 あさひ謄写堂、1995年〕。 * 『日本三代実録』巻第五十、7月30日の地震の記録。亥時(22時頃)余震が3回あった。 沿岸部だけでなく離れた内陸でも被害が発生したとされている。八ヶ岳の山麓が崩壊し形成された堰止め湖(河道閉塞)が、303日後の仁和4年5月8日(888年6月20日、6月24日G])に決壊し発生した土石流が原因と考えられる洪水〔仁和の洪水 信州発考古学最前線〕〔 歴史地震 (26), 19-23, 2011〕〔 歴史地震研究会 歴史地震第26号〕。大月川に出来た河道閉塞の湛水量は5.8億m3と推定されている〔。 『扶桑略記』 『類聚三代格』巻十七 また臼杵郡東海村(現・延岡市)にあった護国寺である慈通寺(現・円通山千光寺)が流失したという記録や、同村の川島熊野大権現が倒壊した記録から、日向においても津波や震害があったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁和地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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