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仁寿山黌 : ミニ英和和英辞書
仁寿山黌[じんじゅさんこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にん, じん]
 (n) kernel
寿 : [ことぶき]
 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

仁寿山黌 : ウィキペディア日本語版
仁寿山黌[じんじゅさんこう]
仁寿山黌(じんじゅさんこう、じんじゅざんこう 旧字体: 仁壽山黌)は、江戸時代後期に姫路藩領の播磨国飾東郡奥山村(現:兵庫県姫路市奥山)にあった私塾学問所。姫路藩家老を務めた河合道臣(寸翁)が後進を指導した。現地には土塀が残っており、北原と兼田の境には河合家墓所が残っている。仁寿山校とも表記される。
==歴史==
文政4年(1821年)、姫路藩主の酒井忠実が、藩の財政を立て直した家老河合道臣阿保村の幡下山(はたしたやま)の土地(実際には、東阿保村、兼田村、北原村、奥山村にまたがって広がる山)を与える〔『姫路城の基礎知識』「藩校好古堂と仁寿山校」〕。道臣はこの山を仁寿山〔『論語』雍也第六「仁者は寿し(いのちながし)」より〕と改名し、麓に仁寿山黌を開く〔姫路市サイト「姫路の歴史」 〕。頼山陽猪飼敬所森田節斎などが講師を務め、国学漢学医学などを教え、尊皇攘夷論者を多く輩出することとなった。
しかし、天保12年(1841年)に道臣が死去すると批判が噴出。天保13年(1842年)、酒井忠学の時に医学寮以外は廃校になり藩校好古堂に吸収される。医学寮も明治3年(1872年)に閉鎖された。
姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「仁寿山黌」の言葉が書かれており、奥山、北原、兼田地区を校区に含む姫路市立糸引小学校の校歌には「仁寿の教え今もなお」の歌詞が含まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「仁寿山黌」の詳細全文を読む




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