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仁科神明宮(にしなしんめいぐう)は、長野県大町市にある神社。1872年(明治5年)より郷社、1876年(明治9年)より府県社、1893年(明治26年)より県社となる。 ==歴史== 仁科神明宮は北安曇郡社村字宮本に鎮座し、天照大神を奉祀している。安曇郡一帯は古来諏訪神社と穂高神社との力が交々深く及んでいた地方であるが、神明宮に関する限り、創祀以来御祭神は御一座のままである。神明宮の創祀は皇大神宮御領であった仁科御厨鎮護のため勧請されたことに基いている。1192年(建久3年)8月、二所大神宮神主が職事の仰せによって神領の仔細を注進したものを編輯した「皇大神宮建久己下古文書」によれば、当時信濃国には僅かに麻績・長田・藤長及び仁科の四御厨しか現存せず、しかも仁科に限り「件御厨往古建立也、度々被下宣旨、所停止御厨内濫行也」と注記し、当時既にその創建の年次が不明であったことを述べている。神宮雑例集の記事によれば、信濃に初めて神戸が封ぜられたのは後冷泉天皇の1048年(永承3年)12月のことであるから、御厨の建立はそれ以後とみてもよいかと思う〔著者・一志茂樹『仁科氏文化の研究』発行者・信濃教育会北安曇部会、58~59頁、発行・昭和12年5月10日。〕。新宮雑書信濃御厨の記事1192年(建久3年)にも、麻績、藤長、長田の御厨とともに仁科御厨の名を連ねており、しかも仁科御厨に限り、「件御厨往古建立地」と注記してあるので、信濃で一番古いことがうかがえる。信濃国内の御厨は全て伊勢神宮領であった。 承久の変に於いて仁科盛遠が、後鳥羽上皇の帷握に参じ奉り、越中礪波山の戦いに戦死してから、その所領であった仁科の地は一旦幕府に没収するところとなり、改めて後堀河天皇の御父守貞親王に奉献されたのであるが、親王はこれを皇女式乾門院に譲られ、門院は更に後堀河天皇の第一皇女室町院に伝え給ひ、ここに室町院領としての仁科庄が成立したのである。仁科庄は伝領過程を辿って来て、仁科庄は直ちに仁科御厨の変形とは考えられないが、御厨は或いは若干その領域を縮少されたかも知れないが、完全にその神領を保っていたものと推定される。そうでなければ1376年(永和2年)の棟札に見られるような整った式年造営は出来なかった筈である〔著者・一志茂樹『仁科氏文化の研究』発行者・信濃教育会北安曇部会、61頁、発行・1937年(昭和12年)5月10日。〕。 神明宮が創祀以来20年一度の式年造営を滞ることなく今日まで継続し、しかもその祭祀・神事等に古式を伝えて厳かに之を執行し、少しも衰徴の跡を見せずして御厨神明たるに相応しい伝統を持続してきた事実に顧みるとき、相当後年まで神役を奉仕していたのではないかと想像されるのである。殊に領家であった仁科氏は藤原時代以降500年間、信濃の於ける古族であり名族である家門の誇りを伝えてその勢力を張り、しかも勤王の精忠に終始して戦国時代末期まで及んでいたことに思いを致した場合、時代の波に動かされることなく、深い伝統と信仰とをもった御厨神人等と共にその忠誠を果たしたであろうことが想見出来るのである〔著者・一志茂樹『仁科氏文化の研究』発行所・信濃教育会北安曇部会、61~62頁、発行・1937年(昭和12年)5月10日。〕。 仁科氏が永禄末年に至って遂に武田氏に滅ぼされてからは、武田信玄の五男盛信が大町に入って仁科氏の名跡を継ぎ、同様に神明宮の祭祀に従ったのであるが、1582年(天正10年)織田氏の甲州征伐で武田・仁科両氏が滅亡すると、小笠原貞慶が仁科氏の旧領である安曇郡を安堵され、神領として朱印15石の地を寄進し、1638年(寛永15年)以降黒印23石となり、累代の松本藩主が共進して造営・祭祀をも奉仕し明治維新に及んでいる。松本藩領内で神明宮の黒印高が他の神社に比して最も多かった理由は、仁科氏の勢力の跡によったものであろう。1872年(明治5年)11月郷社に列し、1893年(明治26年)8月24日県社に昇格して今日に及んでいる。古来仁科六十六郷の惣社として神威ままねく、又我が国七神明の一つとして古くから世に知られていた神社である〔著者・一志茂樹『仁科氏文化の研究』発行所・信濃教育会北安曇部会、62頁、発行・1937年(昭和12年)5月10日。〕。 式年造替については、創祀以来、皇大神宮にならって20年ごとに行われており、1376年(永和2年)から1919年(大正8年)まで、20年ごとに行われた造替の際の棟札が一枚も欠かすことなく保存されている。500年以上の長きにわたり、一度も欠かすことなく式年造替が奉仕されてきたことは、全国においても例を見ないことである。 仁科氏が主家の武田氏と共に滅亡してからは、松本藩主がこれに代わって式年造替を奉仕したが、1636年(寛永13年)の造替を最後として、その後は全て新築ではなく修造に留まり現在に至っている。現在の社殿は、寛永造替時のものと推定され、300年を経ている。 修造に当たっては、多くの巨大な用材が使われるので、古例にのっとって、高瀬川入神明宮御料林から伐木され、当時の大町組、池田組、松川組の3組に科して奉仕された。 明治時代に入り、その責任は氏子ならびに崇敬する者の双肩にかかり、1878年(明治11年)の式年造替にあたっては、第11(社地区)、第12(大町、平地区)両大区会議に、その後は北安曇郡町村町会によって負担的寄付をあおぎ、この大祭を滞りなく続けてきた。なお式年の年ごと八代神明宮では、当社の古材をもって修理を行い、大祭には仁科神明宮からは神職や関係者が参列して大祭を行う慣わしになっている。次の式年造替は2019年(平成31年)である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁科神明宮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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