|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 今 : [こん] 【名詞】 1. this 2. now ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 二 : [に] 1. (num) two
今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日 - )は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。愛称はチューまたはイマチュー。から4年連続で開幕投手を務めるなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した〔「惜別球人 6回 今中慎二『いいときも、悪いときもあった。でも気持ちよくできた13年間でした』」『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.116〕。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ〔「天才サウスポーの原動力は打倒・巨人の心意気!」『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.29〕、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた〔『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.30〕。本来は右利きだが、この時に近所の中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった〔〔フルタの方程式 12月号(テレビ朝日)2009年12月6日放映分にて本人談。〕。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入り、4年生からは投手になった〔。門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている〔。当時から球速があったが、チームの守備力が高くない事などから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという〔。練習を見学した際に、手の長い左投手として関心を持った大阪産大高校(大東校舎)〔大東校舎は、平日の練習は本校と別のグラウンドで行っていたが、週末の練習および試合では本校と合同だった。〕から誘われ、野球部の強化を進めていた同校に進学〔。当時の監督は山本泰であった。 入学当初は目立った存在ではなかったが、すぐに見違えるような速球を投げるようになり、同校を訪れた田丸仁(当時、阪神スカウト)からも高評価を受けたという〔。1年夏の大阪府大会からベンチ入りを果たし、秋の府大会では準々決勝の対PL学園戦に登板した。この試合は0対1で敗れたものの、立浪和義や野村弘を擁して翌年に春夏連覇を果たす強豪をよく抑え、NPBのスカウトらから注目を集めるようになった〔。2年の冬にはクモ膜下出血で母を亡くし、精神的に大きく落ち込んだが〔『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.31〕、3年時になると精神的に立ち直り、将来のプロ入りを明確に目指すようになった。 3年生に進級した1988年度より大東校舎は大阪桐蔭高校として独立する。3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦敗退し〔『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.118〕、甲子園に出場することはなかった。漫然と大学への進学を予定していたが、145km/hの速球〔「期待のドラフト1位クンの中間報告 今中慎二」『週刊ベースボール』、1989年4月10日号、P.73〕などによって全球団のスカウトが来校〔するほど高い注目を集めており、1988年のドラフト会議で中日ドラゴンズに1位指名を受けた。担当スカウトは法元英明で、契約金と年俸それぞれ6,000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる〔読売新聞、1988年12月4日付朝刊、P.19〕。大阪桐蔭から初のプロ野球入りした選手である。ちなみに同期には、バッテリーを組んでいた桐山明佳(元日本ハム捕手。ドラフト外で入団)がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今中慎二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|