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今 和次郎(こん わじろう、1888年(明治21年)7月10日 - 1973年(昭和48年)10月27日)は、民俗学研究者。 民家、服装研究などで業績があり、「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。 東京美術学校出身の画家でもあった。弟の今純三は銅版画家。早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本生活学会会長、日本建築士会会長も務める。文化女子大学短期大学部現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともある。どこへ行くにも背広でなくジャンパーを着ていた。 == 略歴 == *1888年(明治21年) 青森県(現・弘前市)にて、父成男、母きよの次男として生まれる〔「年譜」『今和次郎 採集講義』 青幻社、2011年〕。 *1983年(明治25年) 弟純三が生まれる〔。 *1906年(明治39年) 東奥義塾中学卒。一家で東京市四谷に引っ越す。東京美術学校図按化(現在の東京芸術大学美術学部)に入学〔し、デッサンの勉強に励む。 *1912年(明治45年) 東京美術学校図按科卒。岡田信一郎の薦めで早稲田大学建築学科助手に採用される。佐藤功一に師事〔。 *1914年(大正3年) 早稲田大学講師となる〔。 *1915年(大正5年) 早稲田大学助教授となる〔。 *1917年(大正6年) 早稲田大学の佐藤功一教授の誘いで「白茅会」〔(はくぼうかい)、日本の古い民家を保存する会〕に石黒忠篤らとともに参加。柳田國男の調査に同行〔し、各地の民家のスケッチするようになる。 *1918年(大正7年) 「民家図集 第一輯 埼玉県」白茅会(民家調査の最初の報告書)〔。 *1920年(大正9年) 早稲田大学教授となる〔。都市計画や造園に関する講義を行った。これに関連して人文地理学に接近する〔 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [近代編 1 ] 』 原書房 2011年 401ページ〕。 *1922年(大正11年) 「日本の民家 田園生活者の住家」(鈴木書店)を刊行〔。 *同年、朝鮮半島で民俗調査に従事(朝鮮総督府の委嘱による)〔。 *1923年(大正12年) 9月、関東大震災。10月、震災後の銀座に「バラック装飾社」を興す〔。 *1924年(大正13年) 朝鮮総督府から「朝鮮部落調査特別報告 第一冊民家」を刊行〔。 *1925年(大正14年) 初の考現学調査「銀座街風俗」を行ない、『婦人公論』に発表〔。 *1927年(昭和2年) 「しらべもの(考現学)展覧会」を新宿紀伊国屋で開催。「考現学」を提唱〔。 *1930年(昭和5年) 『モデルノロヂオ(考現学)』出版(吉田謙吉と共著)〔。 *1931年(昭和6年) 『考現学採集(モデルノロヂオ』出版(吉田謙吉との共著)〔。 *1965年(昭和40年) 勲四等瑞宝章受章〔20世紀日本人名事典 〕。 *1973年(昭和48年)10月27日 心臓麻痺により死去。同日勲三等旭日中綬章受章〔。 :今は民家研究で業績を挙げたが、考現学研究などのため、柳田國男に「破門」(本人談)されたと称したが、一方で、柳田の方は、和次郎の弟子・竹内芳太郎に「破門した覚えはない、君からそう伝えておいてくれ」と答えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今和次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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