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今川 国氏(いまがわ くにうじ、寛元元年(1243年) - 弘安5年2月23日(1282年4月3日))は鎌倉時代の武将。三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)の地頭にして、守護大名・戦国大名今川氏の祖。吉良長氏の次男。通称は四郎。 == 概要 == 父の吉良長氏は足利氏の分領である三河国幡豆郡にあった今川荘を隠居地としたが、後に国氏はこの今川荘を譲られ地頭となり、その地の名により初めて今川氏を称した。後の駿河国・遠江国の守護職を代々歴任し戦国大名に成長した今川氏も初代国氏の頃は今川荘の3ヶ村の小領主に過ぎなかったとされる。よって国氏の代には目立つ事績の記録は乏しく人物詳細は知れない。 「寛政重修諸家譜」〔下記参考文献の2 所収、「寛政重修諸家譜・巻第九十四」 p224。〕の今川国氏の項によれば、弘安年中に安達泰盛反逆に対する戦功があったとされ、惟康親王より恩賞として遠江国引間庄(静岡県浜松市)を与えられたとするが、安達氏が滅ぼされた霜月騒動は、国氏死後の弘安8年(1285年)の事であるため事実関係は不明〔同じ諡号・国光寺殿を持つ嫡子の基氏の事績との混同も考えられる。〕。また、この時、父長氏から先祖の源義家以来相伝の宝剣二振りのうち、龍丸を譲り受けたともいう。〔また養寿寺(西尾市下矢田町)蔵の吉良氏系図によれば、兄・吉良満氏には友切丸、弟・国氏には髭切丸の両剣をそれぞれに授けたと記す。〕すなわち国氏は吉良満氏とともに清和源氏正嫡の証しであるこの両剣を受け継ぐ足利義氏が祖父であった。この宝剣分与の伝承は、義氏の守護任国である三河国に扶植された足利一族のなかでも今川・吉良両氏が要(かなめ)の存在とされたことを意味する。〔なお、国氏・満氏兄弟はこの友切・髭切に宿る神霊を畏れ、両剣を御剣八幡宮(西尾市西尾城趾内)に納めて崇敬したと伝える。〕。弘安4年1月18日(1281年2月8日新暦)出家、翌・弘安5年2月23日(1282年4月3日新暦)卒去〔没年には諸説がある。「寛政重修諸家譜」では弘安4年2月23日(1281年3月14日新暦)、「尊卑分脉」には弘安6年2月23日(1283年3月23日新暦)でともに享年40とする。〕。享年40。法名は國光寺殿傑山れい英と号す(「れい」は「羽」冠に「令」という字)〔兄に吉良満氏、足利泰氏は叔父にあたる。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今川国氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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