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今川 氏堯(いまがわ うじなり)は、江戸時代の高家旗本。 吉良家の一族である岡山弥清の長男で、生母は品川高久の娘。今川直房の養子に迎えられ、跡を継いだ。 == 生涯 == 今川直房の子供が早世したため、養子に迎えられた。吉良家と今川家は多重の姻戚関係で結ばれており、氏堯の父弥清は直房の甥(弥清の母が直房の妹)、氏堯の母は直房の従妹という関係である。 万治元年(1658年)8月5日に将軍徳川家綱に御目見する。寛文元年(1661年)12月10日養父直房の死去により、家督を相続する。氏堯は表高家であり(『徳川実紀』には旗本寄合席であったとも記される)、役職には就くことがなかった。 室町時代、足利義教が今川範忠の武功を称え、今川の名字を嫡家に限るとしたことがあった。庶家が今川を名乗ることを禁じて嫡流の権威を高めるものであり、氏堯の外祖父高久(今川氏真の次男)が品川を称したのもこの由緒によるものである。しかし、江戸時代初期に統制は不十分であり、庶流で今川を称する者も多かった。寛文6年(1666年)6月19日、将軍家綱はこの由緒を確認し、今川の苗字は氏堯の家に限るよう命じた。これにより、瀬名氏の流れを汲む大番士の今川貞利・義行父子が名字を瀬名に改めている。 延宝元年(1673年)11月15日死去、享年32〔『寛政重修諸家譜』による。『今川系図』では享年24。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今川氏堯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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