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今川 氏豊(いまがわ うじとよ)は、戦国時代の武将。尾張国那古野城主。兄の今川彦五郎と同一人物とも考えられていたが、最近の研究では別人とされている。また、氏豊の名は今川氏の良質の文書には現れず、氏親の子ではなく傍流という説もある。 == 概要 == 永正12年(1515年)、父・今川氏親は遠江国で尾張守護・斯波義達と戦い勝利し、斯波氏の威は衰えた。大永年間(1521年 - 1528年)に氏親は今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き(那古野城、後の名古屋城)、末子の氏豊を今川那古野氏の養子として入れ城主とした。氏豊は斯波義達の娘を娶り斯波氏と姻戚の関係になった。那古野氏は明徳・応永年間に今川仲秋が尾張守護となった際、尾張に代官として封じられた今川氏の一族(仲秋の庶子とも)で、氏豊はその家の養子となったとされている。 享禄5年(1532年)、勝幡城主・織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。『名古屋合戦記』によると、氏豊が連歌を非常に好み、そのことに目をつけた信秀が那古野城に催される連歌会に足繁く通い何日も逗留するようになり、氏豊に信用されるようになった。信秀が城の本丸に窓を開けるが、氏豊は夏風を楽しむ風流のためだろうと信頼しきっていた。ある日、信秀は城内で倒れ「家臣に遺言をしたい」と頼み、同情した氏豊はこれを許し、信秀の家臣が城内に入った。その夜、信秀は俄かに城内に引き入れた手勢を使って城に火を放ち、城の内外から攻め寄せて城を乗っ取ってしまった。氏豊は命乞いをして助けられ、女方の縁を頼って京に逃れた。 天文2年(1533年)、尾張に下向した山科言継と飛鳥井雅綱が勝幡城で織田信秀ら織田家家中に蹴鞠の指導をした際に今川竹王丸(氏豊)も招かれていたと『言継卿記』に記されていることから〔日記の中で言継は竹王丸の年齢を12歳としている。この記事を信頼するならば生年は大永2年(1522年)となる。生年については大永元年(1521年)説もある。〕、那古野城の奪取の時期については天文7年(1538年)年説もある。 那古野城を奪われた後、駿河に帰らず京に逃れた理由は不明で、今川家の家督争いの花倉の乱にも関与していない。そのため氏親の子ではなかったのではないかという説もある。また、弘治3年(1557年)3月、山科言継は駿府から京へ帰る途中、駿河藤枝で「今川那古屋殿」に病気見舞いの使者を遣わしている(『言継卿記』)が、この「今川那古屋殿」を氏豊とみれば、那古野城を追われた後、一時京に逃れたかもしれないが、最終的には今川義元の許に迎えられたと考えられる。義元の尾張侵攻の目的の一つとして、氏豊の旧領地回復及び那古野城の奪還をあげる考え方がある(参考文献参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今川氏豊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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