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仏足跡歌碑(ぶっそくせきかひ)は、奈良県奈良市の薬師寺に伝わる奈良時代の歌碑。仏(釈迦)の足跡を礼拝する功徳などを詠んだ和歌21首から成る。その歌を仏足跡歌といい、そのすべてが仏足跡歌体と呼ばれる特殊な形式で作られている〔21首の内、11番歌と21番歌は欠損のため明らかではないが、仏足跡歌体であったと推測するのが自然である(廣岡義隆1996 p.15)。〕。文字は、平易な漢字に統一された一字一音式の万葉仮名で表現され、上下2段に刻まれている。 仏足跡を石に刻んだものを仏足石というが、753年(天平勝宝5年)の年紀を有する仏足石が本歌碑とともに薬師寺の大講堂に安置されている。その仏足石と歌碑が、もと一具のものであったとする文献はないが、本歌は、仏足石の周囲を回りながら謡われた歌と推定されている。歌碑の製作年代は不明であるが、その歌の内容や用字法などから770年(宝亀元年)ごろと見なされている〔森岡隆(かなの成り立ち事典)pp.182 - 183〕〔。 本歌碑は金石文であるため、書写によって生じる誤りや錯乱がなく、当時の字体・用字をそのまま今日に伝える貴重な存在である。1952年(昭和27年)に国宝に指定されている〔昭和28年文化財保護委員会告示第17号。官報に告示が出たのは昭和28年3月11日だが、指定は昭和27年11月22日付である。〕〔薬師寺の「仏足石」も同じ1952年に国宝に指定(歌碑とは別件で指定)。〕。仏足石歌碑とも書くが、本項は国宝の指定名称に従った。〔〔大島正二 pp.132 - 137〕〔森岡隆(別冊太陽)p.28〕〔奈良県 pp.63 - 64〕〔児山信一 pp.66 - 69〕〔書道辞典(飯島春敬)p.713〕〔北里闌 pp.42 - 45〕〔大井重二郎 pp.1 - 2〕〔大井重二郎 p.18〕 == 概要 == 『観仏三昧経』などに、「仏足の妙相(千輻輪相〔千輻輪相(せんぷくりんそう)とは、仏の三十二相の一つ。仏の足の裏にある、千の輻(や)をもつ車輪状の紋(新潮国語辞典 p.1195)。〕など)を拝む者は、千劫の罪障〔罪障(ざいしょう)とは、仏道修行や悟りの支障となる罪悪のこと(漢字源)。〕が消滅する功徳があるといわれることから、仏足石が造られた。仏足石は、仏像ができる前から、釈迦を象徴するものとして礼拝の対象となっており、その風習は、古くからインドにおいて盛んに行われていた。」とある。これは釈迦入滅後にその足跡を石に彫刻したことにより始まり、やがてその転写が中国の諸寺に安置され、さらに日本にも伝来した(#仏足跡信仰の日本への伝来を参照)。 日本最古の仏足石が薬師寺に伝わるが〔薬師寺の仏足石は、その銘文によれば、長安の普光寺のそれを模写して伝えたとあるが(#仏足跡信仰の日本への伝来を参照)、その普光寺の仏足石が伝わらない今、日本ばかりでなく、中国にも薬師寺の仏足石より古いものはない(山下正治 p.215)。〕、その傍らに本歌碑があり、仏徳讃歌の意から詠った和歌21首が刻まれている。歌体は、五七五七七七の6句38文字という特殊な形式であり、そこには、仏足石の周りを礼拝していた情景や心情などが表現されている。〔〔〔鈴木暢幸 pp.91 - 92〕〔〔太田水穂 p.374〕〔 奈良時代は『万葉集』を生んだ短歌の全盛期であるが、その当時に書写された歌は実にわずかしか残っていない。その中に、法隆寺五重塔初層天井組木落書、韓藍花歌切、石神遺跡出土木簡などがあるが、そのほとんどは歌の断片であり、歌末まで記した本歌碑は、文学的遺作の乏しい時代の作品として、史学上、文学上、書学上、重視されている。また、当時の金石文として、法隆寺金堂薬師如来像光背銘・法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・宇治橋断碑などがあるが、いずれも漢文体であり、この中にあって本歌碑のみは万葉仮名で記録された最古の国語文として貴重な存在である。〔〔〔書道辞典(飯島春敬)p.360〕〔森岡隆(かなの成り立ち事典)p.150〕〔〔大井重二郎 p.19〕 本歌が印本となって世に出たのは、1752年(宝暦2年)、江戸の医官・野呂実夫の『仏足石碑銘』が最初であり、続いて狩谷棭斎が野呂の欠を補うべく『古京遺文』を1818年(文政元年)に刊行した。歌の解説では、山川正宣〔山川正宣(やまかわ まさのぶ、1790年 - 1863年)は、江戸時代後期の国学者。著書に『仏足石和歌集解』、『山陵考略』などがある(岸上善五郎(山川正宣小伝))。〕の『仏足石和歌集解』(1827年刊)が最も詳密で、最秀との評がある。山川はその著書の中で、野呂と棭斎の業績を高く評価している。〔〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仏足跡歌碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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