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他戸親王(おさべしんのう、天平宝字5年(761年)? - 宝亀6年4月27日(775年6月3日)は、奈良時代末期の皇族・皇太子。父は光仁天皇(当時は白壁王)、母は井上内親王。聖武天皇の外孫にあたる。 『水鏡』の年齢記事によれば「宝亀三(772年)十二(歳)になる」とあり、逆算すれば生年は天平宝字5年となる。この場合母親の井上内親王が45歳の時の子となってしまい年齢が不自然であるとして、水鏡の記事は「二十二(歳)」の間違いとして天平勝宝3年(751年)とする説がある。だが、称徳天皇亡き後に最も皇位に近い立場にいた筈の他戸親王の『続日本紀』における初出が、父・光仁天皇の即位後であること(つまり称徳朝における記録が存在しない)や姉の酒人内親王も井上内親王が37歳の時の子であることを考えた場合、当時でも稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。このため、本項では天平宝字5年説で解説する。 == 経歴 == 親王の父・白壁王は天智天皇の孫である。だが、既に皇位が天武天皇系に移されて久しく、王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下で、天智天皇の曾孫で母親も聖武天皇(天武天皇の嫡流)の内親王である他戸王(当時は親王ではない)が注目されるようになる〔称徳天皇による僧侶・道鏡擁立(宇佐八幡宮神託事件)も、他戸親王への中継ぎ(称徳→道鏡→他戸)としての性格に求める説もある(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館))。〕。 やがて称徳天皇が亡くなると藤原氏は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。翌宝亀2年1月23日には他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。 ところが宝亀3年(772年)、突如母親である皇后井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆のかどで皇后を廃され、5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀4年10月19日には、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母と共に急死する(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。 かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位する事になるものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませる事になっていくのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「他戸親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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