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仙台味噌(せんだいみそ)は、仙台藩初代藩主伊達政宗が仙台城下に設置した御塩噌蔵(おえんそぐら)と呼ばれる味噌醸造所で作らせた味噌にならって製造されている味噌のこと。米麹と大豆でつくられており、辛口の赤味噌である。風味高く、そのまま食べる事もできるため「なめみそ」とも呼ばれる。 材料や製法に対する名称であるため、仙台城下町(現在の仙台市都心部)以外で作られたものも仙台味噌と呼ぶ。現在は、仙台市を中心に宮城県で主に生産されている。 == 歴史 == 仙台味噌の由来として「伊達政宗が文禄2年(1593年)の朝鮮出兵の際に持参した味噌が、夏場でも腐敗しなかったため、他の武将に乞われて分け与えたことから仙台味噌が有名となった」という説があるが〔全国味噌工業協会編 『味噌沿革史』 全国味噌工業協会 1958年、p.286-287.〕、当時の伊達政宗の居城は岩出山城であることと、仙台という地名が慶長5年(1600年)に伊達政宗が名づけたものであるため、これは誤りであるとされる〔岩本由輝 『東北地域産業史』 刀水書房、2002年3月、p.199.〕。 仙台味噌の呼称に関して言えば、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市兵衛が寛永3年(1626年)3月、国分町にて「仙台味噌」の招牌を掲げたのが元祖とされている〔「仙台物産沿革」『仙台叢書』別集第2巻、p.372-373. 全国味噌工業協会編 『味噌沿革史』、p.286-287.〕。その後、伊達政宗の指示により城下に御塩噌蔵が設けられ、真壁屋がその醸造・運営に当たった。真壁屋は100石の扶持を与えられ、武士として古木氏をも名乗った〔「仙台物産沿革」『仙台叢書』別集第2巻、p.373.〕。 第2代藩主忠宗の頃より江戸・大井の仙台藩下屋敷において、江戸勤番の士卒に配給するために御塩噌蔵と同様の原料・醸造方法により製造されていた味噌の剰余分が、江戸の味噌問屋へ払い下げられるようになったことから、江戸市中に「仙台味噌」の名が知られるようになった〔江戸・東京の中の仙台 (財団法人七十七ビジネス振興財団「七十七ビジネス情報第33号」)〕。このことから、大井の仙台藩下屋敷は「味噌屋敷」とも呼ばれるようになった〔岩本由輝 『東北地域産業史』 刀水書房、2002年3月、p.202.〕。 明治期においては、1872年(明治5年)11月に仙台藩下屋敷の味噌醸造所の経営を引き継いだ佐藤素拙によって、仙台味噌の醸造・販売が積極的に行われ、またその製法が東京府内の味噌醸造業者に広まり、「仙台味噌」の名が東京市場を風靡したと伝えられている〔岩本由輝 『東北地域産業史』 刀水書房、2002年3月、p.215.〕〔全国味噌工業協会編 『味噌沿革史』 全国味噌工業協会 1958年、p.287.〕。 さらに明治時代末期、日本陸軍糧秣廠に勤めていた河村五郎(日出味噌創業者)が、麹の働きを温度管理で調節する味噌速醸法を考案。醸造時間を年単位から数ヶ月に短縮することが可能となった。この醸造法は、後に特許が開放され、仙台味噌の醸造法とセットで全国に普及したことから他地域にも普及した。また、第二次世界大戦中には、配給味噌の基準製法となったこともあり、関東から東北にかけて圧倒的なシェアを有するに至った〔創業秘話 (日出味噌醸造元ホームページ)〕。しかし、戦中から戦後にかけてマルマンがさらなる速醸法(中田式速醸法)を開発し、それが信州味噌の製造法とともに関東地方に普及したため、戦前のような市場占有率を維持できなくなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仙台味噌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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