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仙台 四郎(せんだい しろう、1855年頃 - 1902年頃)は、江戸時代末から明治時代にかけて、現在の宮城県仙台市に実在した人物。旧字体で「仙臺四郎」とも書く。本名は通説では芳賀 四郎であるが、親族によれば「芳賀 豊孝」〔。 知的障害でほとんど話すことができなかったが、四郎が訪れる店は繁盛するとして存命中から各地でもてなされた。没後、商売繁盛のご利益がある福の神としてその写真が飾られるようになった。 == 来歴 == 江戸時代から1880年代まで、北一番丁勾当台通の角、旧・宮城県庁構内郵便局の場所に火の見櫓があり〔天保4年(1833年)御城下町割繪圖 (宮城県図書館)〕、北一番丁通りを挟んで北向い(現・青葉区役所辺り)は少なくとも19世紀中は「櫓下」と呼ばれていた()〔(仙台市民図書館編、1980年3月31目発行)p.265-267 『104「しろばか」について』〕。この「櫓下」には戦国時代の伊達政宗の代より伊達氏(仙台藩)に仕えた砲術師を祖とする鉄砲鍛冶職人・芳賀家〔沿革 (株式会社 芳賀銃砲火薬店 芳賀火工)〕があり、その4男として生まれたとされる〔〔。そのため「櫓下四郎」とも呼ばれた〔。 四郎の知的障害には2つの説があって、生まれつきだという説と、そうではなく、7歳の時花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れて意識不明となり、それが元で知的障害となったという説がある。言葉は「バアヤン」などとしか話せなかったそうである。 その後、四郎は気ままに市中を歩き回るようになった。行く先々で食べ物や金品をもらったりしていたが、人に危害を及ぼすことはなく愛嬌のある風貌をしていたので、おおむね誰からも好かれた。子供が好きで、いつも機嫌よく笑っていたという。「四郎馬鹿(シロバカ)」などと陰口を叩かれることもあったが、不思議と彼が立ち寄る店は繁盛し人が集まるようになったため、「福の神だ」などと呼ばれてどこでも無料でもてなされたとされるが、実際には家人が後に支払いに回っていたこともあった。店にしてみれば、どんなに高額な飲食でも、必ず後で代金を支払ってもらえる上客と解釈できる存在であったという側面もある。四郎は素直な性質であったが、気に入らない店には誘われても決して行かなかったという。 やはり無料で鉄道を利用し、宮城県内の白石や、福島県の福島、白河、さらには山形県の山形まで足を伸ばしていたらしい。 四郎は1902年(明治35年)頃に須賀川にて47歳で死んだとされるが〔仙台市歴史民俗資料館所蔵資料による〕、諸説ありはっきりしたことはわかっていない。徘徊中にそのまま姿を消したという説もある。釜山港漫遊中との新聞記事が掲載されたことがあるが、これも事実かどうかはわからない〔NHK取材「仙台四郎」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仙台四郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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