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仙台市電(せんだいしでん)は、1926年(大正15年)11月25日から1976年(昭和51年)3月31日まで、仙台市交通局が運営していた市電(路面電車)である。開業当初から公営であった。 == 歴史 == 仙台市は、日露戦争を機にして1907年(明治40年)から「上水道整備」「電気事業(市営電気)」「市区改正」「市電敷設」「公園設置」の『五大事業』の推進により、同市を近代都市へと発展させようとした。しかし、市街電車事業は財政難から実行に移すことができなかった。最初の計画は第一次世界大戦による好景気最中の1918年(大正7年)、交通調査委員を設け、東北帝国大学の武藤盛勝教授に依頼して作らせた仙台市電気鉄道調査書なる報告であり、後の市電とほぼ同じ一周線・長町線・原町線からなる路線を提案するものだった〔1955年刊『仙台市史』第2巻771-772頁。〕が、すぐに第一次世界大戦後の不景気が始まってしまう。 1919年(大正8年)3月2日、703戸を焼失させた南町大火が発生。復興の一環として「市区改正」事業が進展。1920年(大正9年)、この機に市会が市内電車急設を求める決議。「市営電気事業」の市外部分を宮城県に売却することになったため、その収入を当て込んで、1923年(大正12年)3月の市会でようやく具体案が採択された。総額265万円と見込んだ設置費用は売却益のほか、市債と寄付に頼った〔1955年刊『仙台市史』第2巻772-774頁。〕。 工事は順調に進み、1926年(大正15年)に10台の電車をもって開業した。仙台駅前を起点に、旧仙台城下町内を一巡する環状線を基幹とし、駅から南に旧奥州街道の荒町(仙台中町段丘と仙台下町段丘の間の段丘崖の手前)まで敷いた長町線、環状線の途中から芭蕉の辻まで伸びる短い芭蕉の辻線からなった。開業時の初乗り運賃は4銭で〔ただし、最初の5日間は割り引き運賃だった。1955年刊『仙台市史』第2巻778頁。〕、翌年からは全区間5銭で乗れるようになった。回数券と通勤回数券を用意したが、定期券はなかった〔1955年刊『仙台市史』第2巻777頁。〕。市電開通は、昭和金融恐慌の中、不景気を跳ね除ける意味で1928年(昭和3年)に西公園などで開催された東北産業博覧会への旅客輸送の役割も担った。 続いて第2期線として、段丘崖下の仙台下町段丘面で道路を拡幅・新設しながら1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)までかけて長町線を長町駅まで延ばした。北には、勾当台通を延伸した上で、北仙台駅までの北仙台駅線が仙山線全通に合わせて1937年(昭和12年)に開通。そして北西には、北四番丁をへくり沢を越えて西に延伸した上で、八幡町線が1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)にかけて開通した。 道路上に市電用の軌道を与えるためには、相応の道幅が確保されなければならない。城下町の常として道幅が狭かった仙台では、市電敷設は道路の新設や拡張を伴う都市計画実施と連動して進められた(参照)。すなわち、芭蕉の辻線をのぞき、江戸時代からの城下町の中心街路である奥州街道や大町通などを通らず、その一町から二町外れた既存の道路、あるいは、新設の道路を並走するように敷設されたため、営業開始後にはメインストリートの地位の変化を諸所で惹起し、1887年(明治20年)12月15日に当地まで開通した東北本線(当時は日本鉄道本線)以来の都市構造の大変革が起こった。 ちなみに仙台市電の開設議論頃から開業初期にかけて、東北本線では、 * 1920年(大正9年) 仙台駅 - 岩切駅間複線化。 * 1922年(大正11年) 長町駅 - 仙台駅間複線化。 * 1923年(大正12年) 岩沼駅 - 長町駅間複線化。 * 1924年(大正13年) 陸前中田駅(現・南仙台駅)開業。 * 1929年(昭和4年) 仙台 - 塩釜間でガソリンカー運行開始(3日間で故障・休止) * 1932年(昭和7年) 東仙台駅開業。ガソリンカー運行再開。 * 1933年(昭和8年) ガソリンカー専用駅として行人塚駅・三百人町駅・小田原東丁駅開業、塩竈線多賀城前駅(現・陸前山王駅)開業、ガソリンカー運行区間を塩釜 - 長町に延長。 と、仙台圏で複線化や駅新設を次々行っている。特に、仙台市電と競合する仙台 - 長町間には、行人塚駅と三百人町駅の2駅も新設している。また、1922年(大正11年)には仙台軌道が開業し、1925年(大正14年)には宮城電気鉄道(現JR仙石線)の開業と、秋保電気軌道の馬車軌道から電気鉄道の切り替わりがあり、1929年(昭和4年)には仙山東線(現JR仙山線の一部)が開業するなど、1920年代から1930年代の仙台圏では軌道の新設・増強が相次いで起きていた。 第二次世界大戦中、1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲で線路の一部が被害を受けたが、8月20日に全線の復旧がなった〔『仙台市史』続編第1巻509頁。〕。だが戦時下で維持に資源を割かなかったために設備の劣化が進み、1941年(昭和16年)に56台あった電車は終戦直後に30両しか使用できない状態に陥った〔『仙台市史』続編第1巻510頁。1941年の車両台数は1955年刊『仙台市史』第2巻790頁による。〕。戦後、仙台市は車両増強を進めるとともに、第2期工事の最後となった原の町線の工事に着手し、1948年(昭和23年)に完成させた。原の町線も既存の石巻街道(塩竈街道)と並走しながらも同街道から外れて建設された。 仙台市は戦後復興事業において、市電が通る通りや江戸時代の中心街路のほかに広幅員の道路をいくつも造ったが、市電の最盛期は続いた。高度経済成長期に入って仙台にもモータリゼーションが到来すると、市電は自動車やバスの渋滞を引き起こす原因と見られるようになった。 1958年度(昭和33年度)に、市電は赤字に転落した〔『仙台市史』続編第1巻514-5151頁。〕。これは利用者が減ったのではなく、賃金上昇を料金値上げでカバーしきれなかったためと、割安の定期券利用者が増えたためである〔『仙台市史』続編第1巻514-5151頁。〕。しかしやがて乗車人員も1964年度(昭和39年度)をピークに減少に転じた。人件費削減のため、1966年(昭和41年)に車掌による料金徴収を止めて料金箱に入れる方式にしてから、1967年(昭和42年)に車掌を乗せないワンマンカーを導入した。1970年度(昭和45年度)までに全車両をワンマンカーに切り替えたが〔『仙台市史』続編第1巻530-531頁。〕、赤字を変えることはできなかった。 市電は1976年(昭和51年)の廃止が決まった。一方で、1975年(昭和50年)に運輸省が仙台市営地下鉄の計画を認可しており、仙台は都市圏交通の時代にも入っていく。市電廃止後は、いくつかの路線系統に沿ってグリーンバスが運行された。使用されなくなった車両は、長崎電気軌道に譲渡されたが、一部の車両は保管され、仙台市太白区富沢にある仙台市電保存館で見学することができる。また、使用されなくなった線路は、諸所で撤去せずに上からアスファルト舗装で隠したものの、自動車のスパイクタイヤ使用などで舗装が摩滅する度に顔を出し、その度に撤去や再舗装されることが1980年代頃まで続いた。仙台市地下鉄東西線工事でも、舗装下に残された軌道敷跡が撤去された〔(仙台市 地下鉄東西線なんでもサイト 「「地下鉄東西線の駅と沿線の歴史紹介」を作成しました 」)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仙台市電」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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