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仙桃院 / 仙洞院(せんとういん、大永4年(1524年)または享禄元年(1528年) - 慶長14年2月15日(1609年3月20日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。長尾為景の娘。長尾政景の正室。上杉景勝の母。名は綾と伝わる。 == 生涯 == 越後国の戦国大名・長尾為景の娘として誕生。実弟に上杉謙信がいる(同母弟説・異母姉弟説双方がある)。 上田長尾氏の長尾政景へ正室として嫁ぎ、婚約が成立したのは天文6年(1537年)頃といわれる。2男2女を生み、長男の義景は10歳で早世したが、次男の景勝は実子のなかった謙信の養子となってその跡を継いだ。また、江戸時代の軍記物の影響により、長女が畠山義春に次女(清円院)が上杉景虎にそれぞれ嫁いだとされていたが、現在では長女が上杉景虎室、次女が畠山義春室というのが定説である。 永禄7年(1564年)、夫・政景が坂戸城近くの野尻池で溺死すると、謙信に春日山城へ招かれ移り住んだ。天正6年(1578年)、謙信死後の上杉氏のお家騒動である御館の乱では、上杉景虎の春日山城退去に従い景虎の正室である娘ともに御館に籠もるが、戦後には春日山城に戻った。その後は景勝の庇護を受け、慶長3年(1598年)の会津や慶長6年(1601年)の米沢と上杉氏の移封にも随行する。 慶長14年(1609年)、死去。墓所は米沢市の林泉寺にあり、林泉寺の建立に尽力したことから林泉寺中興開基と称されている。なお、林泉寺に残された過去帳を見ると、名前は仙桃院ではなく仙洞院〔なお、この時代において洞(うつろ)の字には東国諸大名の書状から確認される限り、「洞穴」というより「家族」や「屋形」などと解釈する傾向が強く、この字を使うことは不可解なことではない。〕、法名も仙洞院殿知三道早首座とされている。仙桃院の表記は史料的価値に乏しい『北越軍談』だけに見られるもので、学界では仙洞院が正しい表記と目されている。なお、直江兼続を景勝の近習に推薦したともいわれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仙桃院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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