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令狐 愚(れいこ ぐ、? - 249年)は、中国三国時代の魏の人物。字は公治。本名は令狐 浚。并州太原郡の人。叔父は令狐邵。従叔父は王凌。 ==経歴== 後漢末期、曹操に滅ぼされた汝南袁氏の味方をしたことがあった。また彼は衰退した令狐氏の俊英として、将来を嘱望されていた。しかし叔父は、彼の性格に難があり、一族を滅ぼす危険があると心配していたという。 曹丕(文帝)の時代、魏に仕えていた令狐浚は、田豫の些細な規則違反を咎めて罰を与えようとしたため、曹丕の怒りを買い、逆に投獄され愚か者と批判された。この時に名を令狐浚から愚に改めた。しかし以後も官職を進め、地位と名声において叔父を凌ぐようになった。そのため、叔父の見る目の無さを嘲るような態度をとるようになったという。令狐邵はその姿を見て、自分の懸念の正しさを改めて確信し、妻子に万一の時の覚悟をしておくよう忠告し、まもなく亡くなった。 曹叡(明帝)の没後、権勢を握った曹爽に採り立てられ長史となり、後に兗州刺史に任命された。友人の子である単固を従事に迎え、楊康や張式と共に腹心とした。 249年に曹爽が失脚し、朝廷内では司馬懿の一族が権力を握るようになった。令狐愚は、曹芳(斉王)が若年であるため司馬一族の専横を許していると考え、皇族で年長の曹彪を擁立しようとし、東方において強大な軍権を有していた従叔父の王凌を、この計画の首謀者に仕立て上げた。従叔父の子等、激しく諫言する者もあったが、彼等は取り合わず着々と計画を推し進めた。 しかし、令狐愚は計画の途中で病気に罹り死去した。不安に思った楊康は計画を密告し、また後任の兗州刺史である黄華も王凌からの加担の申し出を断り、使者の楊弘と共に計画を暴露した。こうして251年、曹芳廃位計画が司馬懿に察知されるところとなり失敗、王凌一族や単固・楊康などこの事件に加担した者たちは、皆自殺あるいは処刑された(王凌の乱)。既に没していた令狐愚の墓は、自害した王凌の墓と共に暴かれ、服と印綬を剥奪された上で土の中に直接埋め戻された。令狐氏の一族の多くが処刑されたが、令狐邵の子の令狐華のように遠縁のものは連座を免れている。武官であった馬隆は、自らが令狐愚の食客であったとして、私財を投じ令狐愚の遺体を改めて棺に納めなおし、柏や松を植え三年の喪に服した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「令狐愚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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