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suspended animation =========================== ・ 仮 : [かり] 1. (n,adj-no) temporary 2. provisional 3. informal 4. unauthorized 5. unauthorised 6. fleeting 7. assumed (name) 8. interim 9. acting ・ 仮死 : [かし] 【名詞】 1. asphyxiation 2. apparent death ・ 死 : [し] 1. (n,n-suf) death 2. decease ・ 状 : [じょう] 1. (n,n-suf) shape ・ 状態 : [じょうたい] 【名詞】 1. current status 2. condition 3. situation 4. circumstances 5. state ・ 態 : [たい, ざま] 【名詞】 1. plight 2. state 3. appearance
死(し、)とは、 *命がなくなること〔広辞苑 第五版 p.1127〕。生命がなくなること〔大辞泉〕。生命が存在しない状態〔。 *機能を果たさないこと、役に立たないこと〔(→#比喩的な用法を参照) ただし、何をもって人間の死とするのか、その判定や定義は文化、時代、分野などにより様々である。(→「死亡の判定・定義」節を参照)。一旦は命が無いとされる状態になったが、再び生きている状態に戻った場合、途中の「死」とされた状態を「仮死」や「仮死状態」という。伝統的に宗教、哲学、神学が死を扱ってきた。近年では、死生学、法学、法医学、生物学等々も死に関係している。死の後ろに様々な言葉をつなげ、様々なニュアンスを表現している。例えば「死亡」「死去」「死没」などがある。 == 人間の死 == === 死亡の判定・定義 === どのような状態になったことを「死」とするのかということについては、各地域の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立したり影響しあったりしており、複雑な様相を呈している。領域ごとに異なった見解があり、またひとつの領域でも様々な見解が対立している。たとえば今 仮に、医学的な見解ひとつに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。養老孟司は次のように指摘した。 ここではまず、多くの人々がとってきた見解を中心に、様々な見解を説明してゆく。 ;息が止まること :伝統的に命は息と強く結びつけられて考えられてきた。よって、息が無くなった状態は死だと考えられてきた。 ;全身のさまざまなしるし :日本人では、従来(そして現在でも一部では)、爪や髪が伸びる間は、まだ(ある意味で)命はまだあるのだ、と感じている人がいる。現在でも、自分の親や子供などを亡くした遺族などの中には、家族(の身体・遺体)の髪や爪が伸びているのを見て、まだ生きていると感じ、荼毘に付すのを拒む人がいる。 ;臨終の場における医師の恣意的な判断 :前述のように実際には医師にとっても生と死の境目ははっきりしているわけではない。ただ、言葉として「生死」という言葉があり用いられている以上、「間に切れ目がある」という前提が置かれてしまっており、また社会の制度としては、どういう形にせよ、切れ目を決めることを求められることになり、実体とは関係なく、法律というものは言葉で組み立てられているので、死を(法的に、形式主義的に)規定することが可能で、死亡診断書の「死亡時刻」欄に何らかの時刻を書くことで「この時点から死だ」といすることに決められている〔。よって(本当は境目ははっきりしていないのだが)医師は死亡診断書の「死亡時刻」欄を空欄にしておくことは許されず、(ともかくそれに書き込み)それによって「死の瞬間」が(形式的に)決定される。しかし、これは言葉の上で(恣意的に)決めたにすぎず、実体としての「死の瞬間」とは別のものである〔。 ;三兆候 :医療で用いられる「死の三兆候」で、次の三つ。 : * 自発呼吸の停止 : * 心拍の停止 : * 瞳孔が開く :数十年前に臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば基本的には問題はなかった〔〔p.69〕。 ;バイタルサイン :現代の医療の現場では、基本的にまずバイタルサインを見て生命の状態を判断している。つまり心拍数・呼吸数・血圧・体温である。そしてバイタルサインによる生命のしるしが無くなった段階で、瞳孔反射を調べ、それも無い場合に死亡したと判断する、というのがひとつの(よくある)方法である。〔死の判定をする医療者について。原則として医師と歯科医師以外の者が患者の死亡を宣言する権限はない。消防機関の救急業務規程の中では、「明らかに死亡している場合」や「医師が死亡していると診断した場合」には、救急隊は患者を搬送しないと定められている。すなわち、それ以外の場合では、患者が生存している可能性があるものとして取り扱うことが求められている。「明らかに死亡」とは、断頭、体幹部の離断、死体硬直、死斑、腐敗、炭化、ミイラ化その他の明らかに生存状態とは矛盾する身体への損害(いわゆる社会死状態)をいう。社会死要件を満たさない場合、救急隊員は救命措置を開始後に、医師の診断を受けるまでそれをやめてはならない。病院到着時の診察で死亡が確認されることを、DOA(Dead on arrival = 病院到着時すでに死亡)という。 〕 ;臓器移植と線引き :死は実は定義困難なのだが、医療の現場では前述の「死の三兆候」を用いることで、ともかくそういう細かいことを考えずに済んでいた。ところが、臓器移植という問題が出てきた段階で考え込まざるを得なくなった〔〔p.69〕。 :米国などで医師の一部によってさかんに臓器移植の試みがなされるようになると、こうした医師はできるだけ新鮮な臓器を使いたいと考え、少しでも早く臓器を摘出したいと考えるようになった。そのほうが移植された人の予後は良好になる傾向があるからである。だが、新鮮な臓器のほうが予後が良好だからと言って、早めに臓器を取り去った後に、その人は手術時に「生きていた」とされ、臓器を取ったことによって「死んだ」状態になったと判断されると、その一連の行為は(一種の)「殺人」ということになってしまう。そこで、臓器移植をさかんに行おうとする医師たちなどが、意識の有無を生死の線引きに用いることを提唱し、「脳死」という概念を用いることを主張した。それによって、人工心肺などを用いることで、脳が死んだ状態でも、残りの臓器はかわらず生かしておき、その新鮮な状態の臓器を移植することができる、と考えるようになったのである。彼らは「脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示す」と考え、「脳の電気的活性が止んだとき、人間は死んだのだ」と言うようになった。〔生きている、死んでいる、ということは客観的に決められる、と一般人はしばしば思っているが、実はそういうことはなかなか決められない。だから、江戸時代に(医学研究のために)解剖を行う時も、その対象は刑死体(=死刑に処せられ死んだ人の遺体)だった。というのは、遺体を解剖で切るにしても、「もしも生きていたらどうする」という心配がつきまとうが、(前述のように)生死の境目は厳密にははっきりせず、もしはっきりするまで待とうとなると、肉が腐って骨になるまで待たなければならなくなり、「ここまで(腐るまで)見たから死んでいる。これなら死んでいないとは言わせない」という時点まで待つと、今度は(組織が腐って破壊されており)解剖する意味がなくなる状態になってしまう。だから、生死の判定というそもそもはっきりしないことについて心配しなくてよい唯一の対象である死刑囚を解剖の対象として選んだのだ、と養老は解説した。死刑囚ならば、解剖を開始した後に「生きていたかも知れない」とか「まだ生き返るかも知れない」などと言われても「大丈夫、これはもう死ななければならない人なんだから」という論理が成り立ったというのである。(出典:『死の壁』p.66〜67)〕。 :「脳死」という考え方は、様々な激しい議論を生み、かなりの論争にもなった、現在では一時ほどは激しくはないが、今も様々な議論は続いている。 :現代では「脳死が死だ」というふうに捉える人もいるであろう〔〔p.57〕。だがこの「脳死」概念ですら線引きは様々で、(脳のどこが死んだ段階を「脳死」とするか意見は分かれ)、「脳の神経細胞が全部死んだ時点が脳死」とする人もいる〔〔p.57〕。しかし、仮にこの論法を取る場合でも、一体どの時点で神経細胞が全部死んだのか、実はわからない〔〔p.57〕。〔実は意識の有無の判定も容易ではない。意識の停止は睡眠中や昏睡中にも起こりえるため、停止は一時的なものではなく、永続的で回復不能なものでなくてはならない。意識の停止がたんなる睡眠であった場合は脳波計で比較的簡単に確認できる。 だが、脳の一部の機能が失われたと外的にモニタできた場合でも、その状態で意識があるのか無いのか、判断できない場合が多い。〕〔一部の人は、脳幹が生きているかどうかを線引きに使えばいい、と主張している。だが、脳幹の機能が停止しているにもかかわらず、聴覚野のほうは生きて機能を保っていて、周囲の人の言葉を理解している患者の事例も発見された。〕〔一部の人は、「人間の意識に必要なのは脳の新皮質だけである」と主張している。こうした人は「新皮質の電気的活性だけを基準に死の判定をすべきである」とする。"大脳皮質の死によってもたらされる認識機能の永続的で回復不能な消失が、死を判定する基準となる"と述べる人もいる(関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による関西医科大学法医学講座 )。"人の思考と人格を回復する望みはないから"と考えるのである。〕〔酸欠によって大脳皮質の機能が失われた場合でも、脳の電気的活性が脳波計が感知するにはあまりに低かった場合、何も存在しなくても、脳波計はノイズ(見かけの電気信号)を感知することがある。(病院では、脳波計を使って死を判定をするときは、病院内で広く空間を隔てるなどの精巧な実施要綱があるという。)〕〔米国では、2005年に、植物状態におちいったテリー・スキアボの尊厳死を巡る事例が、アメリカの政治を脳死と人為的な生命維持の問題に直面させた。一般的に、そのように死の判定を巡って争われた事例で、脳の死因は無酸素状態によって起こる。 大脳皮質はおよそ7分間の酸欠で死に至る。〕〔人工心肺などの医療技術が登場したことによって、心肺停止状態でも恒常的に脳を生かし意識を保つことも可能になった。また、脳機能のみが廃絶しても心肺機能を人工的に維持することが可能となり、心肺機能が保たれているが脳の活動を示す所見がない状態を「脳死」、心肺停止による心肺脳全ての停止を「心臓死」と呼ぶようになった。また、人間の心臓や肺に代わる生命維持装置、あるいはペースメーカーなどによって生命を保つことが可能な場合が現れた。また、心肺蘇生術と迅速な細動除去の発達によって、鼓動や呼吸は再開させることができる場合も現れ、死に関する従来の医学的な考え方でも割り切れなくなってきた。そして心拍や呼吸の停止を「臨床死」と呼びわけることも行われるようになった。「死」をめぐる状況は複雑化してきているのである。〕 :脳死の議論は、一見したところではまるで科学の話のようでも、本当は問題となっているのは、社会が一致して決める「死」が問題の中心になっているようだと養老は指摘した〔〔p.67〕。臓器移植を巡る「脳死」概念では、臓器移植をしようとする医師、臓器をとられる人とその家族、臓器を受け取る人の立場 等々は対立していてかみあわない。 :そもそも、人体というのは様々な種類の細胞で出来ていてそれらが全体で生きているのに、そうした数多くの細胞の中から脳の神経細胞だけを特別視するほどの明確な根拠があるわけではない〔〔p.57〕と養老孟司は指摘した。 :脳の神経細胞だけを特別視するということは、皮膚や筋肉の細胞を差別(軽視)している、ということになる〔〔p.59〕。おまけに筋肉というのは、「脳死」の判定後でも電気刺激を与えるとよく動く〔〔p.58〕。筋肉は生きつづけているのである。こういうことからも、"「生死の境目」や「死の瞬間」は厳格に存在している"とする考えは、思い込みにすぎないことがわかる、と養老は書いた〔〔p.58〕。 :「臓器移植法」を見ても、そういうことはよく現れている〔〔p.70〕。同法には "脳死は死である" などとは書かれていない〔〔p.70〕。単に、脳死状態の患者からは臓器を移植してもよい、としか書いていない〔〔p.70〕。つまり、生死の線引きをはっきりさせようとこだわると困る人がいるからそれを言わないようにしているわけで、「脳死者から臓器移植していい」というのは「どうせなら鮮度がいい臓器がいい」という(外科医や、臓器を受け取る側の)事情・都合で決めたに過ぎない〔〔p.70〕。 :また村上陽一郎も、医学が人間をパーツの集まりとしか見なくなったから「脳死」などという概念を作りだしたのであって、苦しむひとりひとりの人間としての患者への視点がすっかり欠如してしまっているからそうなってしまっている、と指摘し、「脳死」という概念はかなり不適切だ、と指摘している〔村上陽一郎『生と死への眼差し』青土社 2000、ISBN 4791758625〕。 : :臓器移植と脳死を巡って議論が活発だった時に、死(脳死)を「これから先は死に向かって、不可逆的に進行する過程になる状態である」と書いた人がいた〔〔p.68〕。法医学の教員でも、「人の死は、心臓・肺・脳、それら全ての不可逆的な機能停止」という人がいる。「生命活動が不可逆的に止まる事」などとも〔関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室サイト掲載情報関西医科大学法医学講座 〕〔こういう提案をする人は、「不可逆的」の意味を理解するには人間の例で考えるとわかりやすい、と言う。人間の髪の毛や爪は心臓・肺・脳が全て停止していても、数日間は伸び続ける。この間は毛根細胞は生きているが、心肺脳が全て停止している場合、やがては毛根の活動も停止してゆくことは免れない。こう考えて、「個体の状態の不可逆的な活動停止への変化が死」だと言う。この考え方では、逆に事故などで心肺停止状態に陥っても心肺蘇生によって息を吹き返した時には、この間の心肺停止は可逆的なので死とは言わない、のだという。(出典:関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による関西医科大学法医学講座 〕。〔養老孟司は、このような「死に向かって不可逆的に進行する過程になる状態」が死だ、とする定義は、もっともらしく聞こえはするが、根本的に問題がある、と指摘している。というのは、そもそも人間は全員死ぬ。つまり、人間は全員、生まれた時から死に向かって不可逆的に進行する存在であり、後戻りできない。そもそも人は誰でも、最初からその状態で生きているのに、「不可逆的に…」といったことを定義として持ち出す論者は、ある人が、論者がイメージする"死に向かって不可逆的に進行する過程" なるものに、いつから入ったのか、どうやって判定するのか? と、養老はその定義・論法の問題点を指摘している。(出典:『死の壁』p.69)〕 : :立場によって見解は異なり、現在でも「死」の判定や定義については、それぞれの立場で、様々な見解が示され続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「死」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Death 」があります。 スポンサード リンク
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