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仰木魯堂(おうぎ ろどう、文久3年(1863年) - 昭和16年(1941年)9月20日)は大正、昭和初期の茶人、建築家。本名は敬一郎。数寄屋建築で知られる。弟に木工家仰木政斎がいる。 == 生涯 == 文久3年(1863年)、後の福岡県遠賀郡長津村(福岡県中間市東中間)に仰木久太郎、カ子(かね)の長男として生まれた。同地には現在も仰木姓が多いという〔岡山(2001)〕。幼少時より木や竹細工に携わった〔大川(2000)〕。学歴はなく、下関で杉孫七郎に建築を学んだと考えられる。 一度上京するも、働き口がなく家に戻る。明治33年、(1900年)16歳差の弟政吉と再び上京し、指物職人の許に住み込んだ。明治39年(1906年)、京橋区南鞘町(中央区京橋一・二丁目)に家を構え、鈴木甚三、藤井茂吉と建築事業を立ち上げた。翌年には楓川沿岸の竹河岸に仰木建築事務所を設立した。 主に三井財閥系の茶人と交友を持ち、茶会を催す傍ら、中野忠太郎(中野武営か)、益田孝、團琢磨、馬越恭平、小林一三等の東京や湘南方面の本邸、別邸、茶室等の設計に携わった。 大正9年(1920年)には原宿の團邸近く千駄ヶ谷に転居し、同人の美術品の蒐集に関わった。大正末年からは高橋義雄による護国寺再興に当たり、多宝塔や茶室群を任された。 晩年は松永安左ヱ門耳庵に身を寄せた。昭和16年(1941年)9月20日、葉山町森戸神社の草庵にて胃癌のため死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仰木魯堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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