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任 可澄(じん かちょう)は、清末、中華民国の政治家・教育家・学者。貴州省における立憲派の政治家。後に雲南派に属し、護国戦争の発動にも関与した。旧名は文鑅。字は志清。号は匏叟。 == 事跡 == === 貴州立憲派の重鎮 === 1902年(光緒28年)、郷試に合格し、翌年、内閣中書に採用された。その後、故郷に戻り、新式教育機関の設立に尽力する。貴州官立師範伝習所、貴州通省公立中学堂、優級師範選科、憲群法政学堂などを創立し、任自身も教鞭を振るった。 1907年(光緒33年)、貴州黔学総会会長に就任した。政治的には立憲派の立場をとる。1909年(宣統元年)10月、貴州憲政予備会を設立して、任が会長となる。また、『黔報』、『貴州公報』などの新聞を発行し、世論喚起に努めた。しかし、革命派の張百麟らが率いる貴州自治学社とは対立・抗争を繰り広げた。 1911年(宣統3年)11月、貴州省内の革命派と新軍が革命を起こそうとすると、任ら立憲派もやむなくこれに加わった。11月4日、貴州辛亥革命が成功し、大漢貴州軍政府が成立すると、任は枢密院副院長に任命された。しかし、任ら立憲派と劉顕世ら旧軍の集団と、張百麟ら革命派と楊藎誠ら新軍の集団とは、依然として対立が存在し、抗争も繰り広げていた。その際に任らは、雲南省の蔡鍔・唐継尭に救援を求めた。 1912年(民国元年)3月、唐継尭が滇軍(雲南軍)を率いて貴陽に入り、貴州の革命派と新軍を粛清した。唐が雲南都督に就任すると、任可澄は参賛兼秘書長に任命された。その後、黔東観察使、約法会議議員、鎮遠道尹を歴任した。1914年(民国3年)8月、唐が都督を務める雲南に移り、雲南巡按使に昇進した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「任可澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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