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伊上勝(いがみ まさる、1931年7月14日 - 1991年11月16日〔)は、日本の脚本家。群馬県出身〔。本名は井上正喜(いのうえ まさき)〔。ほかに「井上勝」の筆名もあった〔。 長男は脚本家の井上敏樹。 ==来歴== 明治大学文学部を卒業、広告代理店宣弘社に入社〔。 東芝商事がテレビ・ラジオ用脚本を募集しているのを知り、『遊星王子』の脚本を一晩で書き上げて応募したところ入選。テレビドラマとなったこの『遊星王子』(日本テレビ)の原作・脚本を務めてデビュー。 以後、『豹の眼』(TBS)、『快傑ハリマオ』(日本テレビ)など、宣弘社のテレビ冒険活劇物の脚本を執筆した〔。 『隠密剣士』(TBS)で「忍者ブーム」を巻き起こす〔。 この『隠密剣士』で伊上が宣弘社のプロデューサー西村俊一とともに投入した様々な忍術小道具や忍法などのアイディアは、時代劇のなかでの「忍者物」の基本パターンとして今日にまで踏襲されるものとなった。 1965年(昭和40年)、34歳。宣弘社を退社しフリーとなる〔。 1966年(昭和41年)、35歳。宣弘社で『隠密剣士』を手がけた西村俊一、船床定男とともに、東映京都の特撮時代劇映画『大忍術映画 ワタリ』に参加〔。大ヒットとし、続いて同じ東映京都で特撮時代劇『怪竜大決戦』を手がけた。 同年、東映から依頼を受けて東映テレビ部の『悪魔くん』(東映、NET)に参加〔。以後、長きに渡りコンビを組むことになる東映プロデューサーの平山亨との初仕事となる。 1967年(昭和42年)、36歳。『仮面の忍者 赤影』(東映京都、関西テレビ)で全話の脚本を務めた。 同年、『ジャイアントロボ』(東映、NET)を担当。同作の怪獣のアイディアは、のちの『仮面ライダーシリーズ』に登場する怪人たちの元になったと語っている。悪の組織の大幹部が次々と交代するフォーマットも本作で確立された。『仮面の忍者 赤影』は組織ごとチェンジする方式であり、ともに『仮面ライダーシリーズ』で応用されている。 1968年(昭和43年)、37歳。『サイボーグ009』(東映動画、NET)でアニメ作品の脚本を担当。 1971年(昭和46年)、40歳。『仮面ライダー』(東映、毎日放送)では初期企画『クロスファイヤー』の段階から参加、平山と二人で企画を練り、メインライターを務める。同作品は「変身」が「変身ブーム」として社会現象となるほどの大ヒット作となる。 同年、『帰ってきたウルトラマン』(円谷プロ、TBS)の脚本を担当、東映・円谷プロ両社にまたがる活躍を見せる。この作品では、伊上による没脚本に登場する怪獣「キングザウルス」の設定が、劇中のエピソードで「キングザウルス三世」の名に転用されている。 1977年(昭和52年)、46歳、長編映画『恐竜・怪鳥の伝説』(東映京都)に参加。 1978年(昭和53年)、47歳、『宇宙からのメッセージ』小説版を執筆。 1981年(昭和56年)、50歳、『仮面ライダースーパー1』(東映、毎日放送)以後、単発で『水戸黄門』(C.A.L、TBS)などを執筆したほかは、脚本家からはほぼ一線を退く。 1986年(昭和61年)、55歳。『仮面ライダー大全集』(講談社刊)にミニ・ストーリーを寄稿。その内容は、伊上、平山・阿部、立花藤兵衛の下へ本郷猛からメッセージ・テープが届き、「ショッカーがアフリカの地下に大帝国を築いており、今、仲間のライダー達を集め、決戦の準備中である」と本郷が伝える、という内容だった。 1991年(平成3年)、11月16日、肝硬変のため死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊上勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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