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伊丹二郎 : ミニ英和和英辞書
伊丹二郎[じろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たん, に]
 【名詞】 1. red 2. red earth 
: [に]
  1. (num) two 

伊丹二郎 : ウィキペディア日本語版
伊丹二郎[じろう]

伊丹 二郎(いたみ じろう、文久3年1月25日1863年3月14日) - 1951年(昭和26年)12月5日)は、大正から昭和初期にかけて活動した日本実業家麒麟麦酒株式会社(キリンビール)社長を長く務めた。男爵伊丹重賢の次男。
== 経歴 ==
文久3年1月25日(新暦1863年3月14日)生まれ〔霞会館華族家系大成編輯委員会(編)『平成新修旧華族家系大成』上巻、社団法人霞会館、1996年、147-148頁〕。東京出身〔松下伝吉 『人的事業大系』飲食料工業篇、中外産業調査会、1942年、316-317・320頁〕。父の伊丹重賢は青蓮院宮尊融親王(後の久邇宮朝彦親王)に仕えた志士で、明治維新後は元老院議官貴族院議員などを歴任、その功労により1896年(明治29年)男爵に叙された〔。二郎は重賢の次男で、父の死後爵位を継いだ伊丹春雄は兄である〔。
アメリカ合衆国へ留学し、ペンシルベニア大学バージニア大学を卒業、法学士 (Bachelor of Laws) および哲学士 (Bachelor of Philosophy) の学位を取得〔。帰国後は日本郵船株式会社に入社した〔。1907年(明治40年)に天津支店長に就任、大阪函館神戸の各支店長を経て〔日本郵船(編)『日本郵船株式会社五十年史』、日本郵船、1935年、771-788頁、〕、1916年(大正5年)11月に専務取締役に就任し、翌1917年(大正6年)12月まで務めた〔『日本郵船株式会社五十年史』、741頁、〕。日本郵船では社長近藤廉平の片腕として知られた〔。
1921年(大正10年)7月、日本郵船と同じ三菱財閥系列の麒麟麦酒に転じ、取締役に選出される〔麒麟麦酒(編)『麒麟麦酒株式会社五十年史』、麒麟麦酒、1957年、214頁〕。2年後の1923年(大正12年)5月24日には、田中常徳の死去に伴う後任として同社の第4代取締役会長に就任した〔『麒麟麦酒株式会社五十年史』、215頁〕。なお、1925年(大正14年)2月に会長制から社長制に変更されたため、それ以降は取締役社長である〔『麒麟麦酒株式会社五十年史』、216頁〕。
伊丹が会長となった直後の1923年9月、麒麟麦酒は関東大震災によって3か所のビール工場のうち横浜市の山手工場と、工場内にあった本社が全壊する被害を受けた〔『麒麟麦酒株式会社五十年史』、88-95頁〕。同工場は麒麟麦酒創業の地であったが復旧を断念し、1926年(大正15年)に横浜市郊外の生麦に新工場(横浜工場)を建設して復興した〔。伊丹は創業以来社業にかかわる磯野長蔵(1927年より専務)のサポートを受けて復興に尽力するとともに、以降も磯野と組んで経営を続け、広島工場の建設、朝鮮への進出(昭和麒麟麦酒設立)、満洲国への進出(満洲麦酒設立)など積極経営を主導した〔。伊丹はこれらの積極経営によって会社の基礎を確固不抜のものとしたと評されている〔。
1942年(昭和17年)7月28日付で麒麟麦酒取締役社長を辞任し、専務の磯野長蔵に譲った〔『麒麟麦酒株式会社五十年史』、223頁〕。戦後の1951年(昭和26年)12月5日死去〔。満88歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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