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伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月16日(1871年9月30日)- 昭和7年(1932年)8月15日)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。 == 来歴 == 東京市日本橋区(現・中央区)に写真家の北庭筑波の息子として生れる。祖父は浄瑠璃宮薗節の2代目宮薗千寿ともいわれる。医学予備校、独逸協会などに学び、父の没後は神戸の三井銀行に勤務した。 当時、川上音二郎の「書生芝居」が人気を得ていることに興味を持ち、明治24年(1891年)、「川上一座」に俳優として参加した。間もなく、川上と袂を分かち、芸術的写実的な演劇を目指し、11月、依田学海の援助で浅草の吾妻座を本拠に「男女合同改良演劇済美館」を興した。座員には水野好美、千歳米坡らがいた。 明治27年(1894年)からは市村座で佐藤歳三、水野好美とともに3人の姓を合わせて「伊佐水演劇」を旗揚げし河合武雄らとともに近松門左衛門の近松劇からシェイクスピアの翻訳劇まで様々なジャンルのものを上演し、絶賛を浴びた、明治35年(1902年)には拠点を中洲真砂座に移す。 明治42年(1909年)に東京座で行われた「新派大合同公演」では座長を務め、その後迎えた「三頭目時代」を先頭で引っ張った。 昭和3年(1928年)、マキノ省三監督の招聘で映画『忠魂義烈・實録忠臣蔵』に大石内蔵之助で主演。その際の伊井の尊大な態度や勝手な演技はマキノプロ所員を深く失望させ、スタッフや役者の分裂・脱退まで引き起こす原因となった。 昭和5年(1930年)、本国劇を旗揚げも失敗。 昭和7年(1932年)8月15日、死去。 昭和13年(1938年)7月1日から25日まで 東京歌舞伎座で伊井蓉峰追善興行が行われた〔歌舞伎座『歌舞伎座 百年史 資料編』〕。 養子は伊井友三郎。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊井蓉峰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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