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伊佐山三郎 : ミニ英和和英辞書
伊佐山三郎[いさやま さぶろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [み]
  1. (num) three 

伊佐山三郎 : ウィキペディア日本語版
伊佐山三郎[いさやま さぶろう]

伊佐山 三郎(いさやま さぶろう、1901年1月5日 - 1967年9月21日伊佐山三郎 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年2月26日閲覧。〕)は、日本の撮影技師である。映画監督田坂具隆とのコンビネーションで知られ〔、「日本映画史の中でももっとも幸福なコンビ」と呼ばれる〔シリーズ・日本の撮影監督 1 東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年2月26日閲覧。〕。
== 人物・来歴 ==
1901年(明治34年)1月5日茨城県に生まれる〔。
東京に移り、旧制・中央大学に入学するも、中途退学する〔。1922年(大正11年)、日活向島撮影所に入社する〔。撮影部で撮影助手を務めていた1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で同撮影所は壊滅、この時先輩の撮影技師の高坂利光と共に撮影機材を持ち出し、震災の様子をフィルムに収めた。震災後は日活京都撮影所に異動した〔。
1924年(大正13年)、撮影技師に昇進し、三枝源次郎監督、山本嘉一主演による現代劇サイレント映画民族の黎明』でデビュー、同作は同年7月4日に公開された〔伊佐山三郎、日本映画データベース、2010年2月26日閲覧。〕。1927年(昭和2年)、山本嘉次郎脚本の『鉄腕記者』で初めて田坂具隆と組み、同年には『しゃぼん娘』の撮影を務め、以降、田坂と行動をともにする〔。1932年(昭和7年)、村田実伊藤大輔、田坂具隆らの新映画社設立に参加、同年、伊藤が脚本を書き村田と田坂が共同監督した『昭和新撰組』の撮影を務める〔。
1936年(昭和11年)、日活に復帰、現代劇の新撮影所である日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に移籍、同年、田坂監督の『追憶の薔薇 前後篇』の撮影を務める〔。同撮影所で『路傍の石』、『五人の斥候兵』等の作品に携わる〔〔。
第二次世界大戦後は、戦争中に在籍した松竹京都撮影所で、1946年(昭和21年)、市川哲夫監督の『東京特急四列車』から始まった〔。東横映画大映京都撮影所大映東京撮影所を経て、1953年(昭和28年)9月に製作再開宣言をした日活に再度復帰、1954年(昭和29年)、春原政久監督の『女人の舘』の撮影を務めている〔。1958年(昭和33年)には、田坂監督の『陽のあたる坂道』を手がけ〔〔、同作で第13回毎日映画コンクール最優秀撮影賞を受賞した〔Saburo Isayama , Internet Movie Database, 2010年2月26日閲覧。〕。
1967年(昭和42年)9月21日、死去した〔。満66歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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