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伊佐山 三郎(いさやま さぶろう、1901年1月5日 - 1967年9月21日〔伊佐山三郎 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年2月26日閲覧。〕)は、日本の撮影技師である。映画監督の田坂具隆とのコンビネーションで知られ〔、「日本映画史の中でももっとも幸福なコンビ」と呼ばれる〔シリーズ・日本の撮影監督 1 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年2月26日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == 1901年(明治34年)1月5日、茨城県に生まれる〔。 東京に移り、旧制・中央大学に入学するも、中途退学する〔。1922年(大正11年)、日活向島撮影所に入社する〔。撮影部で撮影助手を務めていた1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で同撮影所は壊滅、この時先輩の撮影技師の高坂利光と共に撮影機材を持ち出し、震災の様子をフィルムに収めた。震災後は日活京都撮影所に異動した〔。 1924年(大正13年)、撮影技師に昇進し、三枝源次郎監督、山本嘉一主演による現代劇のサイレント映画『民族の黎明』でデビュー、同作は同年7月4日に公開された〔伊佐山三郎、日本映画データベース、2010年2月26日閲覧。〕。1927年(昭和2年)、山本嘉次郎脚本の『鉄腕記者』で初めて田坂具隆と組み、同年には『しゃぼん娘』の撮影を務め、以降、田坂と行動をともにする〔。1932年(昭和7年)、村田実、伊藤大輔、田坂具隆らの新映画社設立に参加、同年、伊藤が脚本を書き村田と田坂が共同監督した『昭和新撰組』の撮影を務める〔。 1936年(昭和11年)、日活に復帰、現代劇の新撮影所である日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に移籍、同年、田坂監督の『追憶の薔薇 前後篇』の撮影を務める〔。同撮影所で『路傍の石』、『五人の斥候兵』等の作品に携わる〔〔。 第二次世界大戦後は、戦争中に在籍した松竹京都撮影所で、1946年(昭和21年)、市川哲夫監督の『東京特急四列車』から始まった〔。東横映画や大映京都撮影所、大映東京撮影所を経て、1953年(昭和28年)9月に製作再開宣言をした日活に再度復帰、1954年(昭和29年)、春原政久監督の『女人の舘』の撮影を務めている〔。1958年(昭和33年)には、田坂監督の『陽のあたる坂道』を手がけ〔〔、同作で第13回毎日映画コンクール最優秀撮影賞を受賞した〔Saburo Isayama , Internet Movie Database, 2010年2月26日閲覧。〕。 1967年(昭和42年)9月21日、死去した〔。満66歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊佐山三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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