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伊佐 為宗(いさ ためむね、? - 承久3年(1221年)?)は、鎌倉時代初期の御家人。常陸冠者為宗。皇后宮大進。伊佐大進。 藤原北家の山蔭流で伊達氏の祖とされる常陸入道念西〔伊達氏初代の常陸入道念西を伊達朝宗とするか、宗村とするか説が分かれる。また、伊達氏の出自については、藤原氏とする以外にも諸説がある。〕の息子。常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を本領とした。 妹の大進局が源頼朝の妾となり、頼朝との間に男子(貞暁)を生んでいる。 文治5年(1189年)、源頼朝が藤原泰衡追討のために行った奥州合戦(奥州征伐)に、弟の次郎為重、三郎資綱、四郎為家とともに従軍する。8月8日、奥州方の最前線基地である信夫郡の石那坂(現在の福島市飯坂)の城砦を攻略し、佐藤基治など敵18人の首を取り、阿津賀志山の経ヶ岡にその首を梟したという〔『吾妻鏡』には、佐藤基治が阿津賀志山で討ち取られたとも、生け捕りになって後に許され所領へ戻ったともある。〕。 この奥州合戦の戦功により、伊佐為宗の一族は頼朝から伊達郡を賜った。為宗は伊佐郡に留ったが、念西と為宗の弟などが伊達郡に下って「伊達」を称し、伊達氏の祖となった。 承久3年(1221年)、承久の乱に従軍した為宗は、宇治川の戦いで戦死した〔『吾妻鏡』に伊佐大進太郎戦死の記述があり、この大進太郎を為宗とする説と、その子息であるとする説がある。〕。 ==脚注== 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊佐為宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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