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伊利可汗(古テュルク語: 10px10px10px 10px10px10px10px - 、漢音:いりかがん、拼音:Yīlìkĕhàn、? - 552年)は、突厥の土門(トメン、ブミン〔ブグト碑文、ホショ・ツァイダム碑文による。〕:万人長)で、初代可汗。大葉護吐務の子。伊利可汗(イリグカガン:Ilig-qaγan〔il(イル:国家)+lig(リグ:持つところの)すなわち“国家を持つところの可汗”の意〕)というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明(ここでは便宜上、土門とする)。『新唐書』では吐門と表記。 == 生涯 == 突厥部の部族長となり、茹茹(柔然)可汗国の土門となる。 西魏の大統12年(546年)、鉄勒が茹茹可汗国を討とうとしたので、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。これに乗じて土門は茹茹可汗国に求婚したが、茹茹可汗の阿那瓌は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので大いに怒り、使者を送って罵った。土門はその使者を斬ると茹茹可汗国の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢して、西魏に求婚した。 大統17年(551年)6月、西魏の長楽公主を娶って妻とした。この年、西魏の文帝が崩御したので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。 西魏の廃帝元年(552年)1月、土門は兵を発して茹茹可汗国を撃ち、懐荒の北にて大破した。阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉に逃げ、茹茹可汗国の余衆は阿那瓌の叔父の鄧叔子を立てて可汗とした。土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。 土門が死ぬと、子の科羅(乙息記可汗)が立つ(『隋書』では弟の逸可汗が立つ)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊利可汗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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