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伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合〔ただし、「平家」の語は本来桓武平氏でも高棟王流(いわゆる「公家平氏」)を指すのに用いられ(『江談抄』(二))、伊勢平氏の全盛期には同氏が率いる他姓の家人・郎党を含んだ政治的・軍事的集団を指す呼称として用いられるなど、時代によって異なる用法があり、「伊勢平氏=平家」とは必ずしも言えないことに注意を要する(角田文衛「平家」項目(角田文衛監修『平安時代史事典』角川書店 P2253-2254)。〕がある。 == 歴史 == 10世紀末から11世紀にかけて、同族平致頼との軍事抗争に勝ち抜き、軍事貴族としての地位を固める。だが、当初は河内源氏ほどの勢力を築き得ず、白河上皇の院政期前半までは辛うじて五位であり、当時の貴族としては最下層(侍品)であった。伊勢平氏の家系は桓武平氏の嫡流の平国香、平貞盛の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、関東に住した。しかし、次第に清和源氏の有力な一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の家人とならず伊勢国に下向し、源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ。 その後、伊勢平氏は藤原道長のもとで源頼信らと同様、道長四天王とまでいわれた平維衡以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも河内源氏の風下に立つ存在であった。しかし、摂関家の家人としてその権勢を後ろ盾に東国に勢力を形成する河内源氏に対して、伊勢平氏は西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し次第に勢力をかためていった。 さらに、摂関家の支配が弱まり、天皇親政が復活した後三条天皇以降、源平間の形勢は次第に逆転へと向かい、父と親子二代で前九年の役、後三年の役を平定し、武功と武門の棟梁としての名声、地方武士からの信頼ともに厚かった河内源氏の源義家に対する朝廷の警戒が強まり〔1970年代以降、荘園制の研究が進むと、義家に対する朝廷の警戒という従来の学説が見直されることになった。源義家参照。〕、白河法皇の治世下においては次第に冷遇されていくようになった。ことに勢力を伸張させて以降、河内源氏は仕えていた摂関家に対する奉公も以前のようでなく摂関家と疎遠になりつつあったこともあり、次第に後ろ盾をなくし勢力を減退させていった。一方伊勢平氏の棟梁である平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したこともあり、北面武士に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった。 殊にその流れを決定づけたのは、源義家の次男で河内源氏の後継者と目されていた対馬守の源義親が任地での濫妨により太宰府より朝廷に訴えがあり、流罪となり、その後も流刑地である隠岐国においても濫妨に及んだため、伊勢平氏の平正盛による追討軍により、討たれたことによる。正盛は、1107年に出雲で反朝廷的行動の見られた源義親の追討使として因幡国の国守に任ぜられ、翌年、義親を討伐したという触れ込みで、義親の首級と称するものを都へ持ち帰った。 その子、正盛の子平忠盛も鳥羽上皇の時に内昇殿を許され、殿上人となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、伊勢平氏は公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。正盛は備前・伊勢などの国守を歴任し、忠盛は播磨・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった。 平忠盛の死後、平清盛が継ぎ、保元の乱・平治の乱を制し、従一位・太政大臣にまで昇進、「平家(へいけ)」一門の栄華を築き上げる。 『平家物語』によれば、一門の公卿は16名、殿上人は30余名、諸国の受領・衛府・諸司は60余名。当時の日本の半国に当たる、30余国を知行し、「この一門にあらざらむ者はみな人非人なるべし」と豪語するほどの栄華を極めた(ただし、この表現には誇張が含まれており、同時期に公卿に列した人数は最大でも12名であった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊勢平氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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