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伊東 祐安(いとう すけやす)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 == 生涯 == 天文2年(1533年)、9代当主・伊東祐充が没すると、父・伊東祐武は反乱を起こし、外祖父として祐充存命時から家中を牛耳っていた家老・福永祐炳を初めて鳥栖福永氏父子ら4人を自害に追い込み、都於郡城を占拠した。その後、祐武は祐充の弟・祐清(義祐)を擁立する荒武三省の軍勢に敗れ、自害した。祐武の子らは許されたようで、祐安は一門の武将として当主となった義祐に仕えた。飫肥攻めでの活躍を初め、天文18年(1549年)の堰ノ尾の戦い、永禄9年(1567年)の耳田の戦いが記録に残っている。 永禄11年(1568年)、伊東氏は真幸院の飯野地区攻略のため、城主・島津義弘が菱刈氏攻略で不在の飯野城攻めの大将として出陣した。しかし、義弘に気付かれたため睨み合いとなり、桶平城を築いて佐土原遠江守を城代として残すも成果は得られず、主君である伊東義益の急死もあり撤退する。また元亀2年(1571年)頃、祐安は三ツ山の内木場城を守っていたようである。 元亀3年(1572年)、飯野城より先にある加久藤城攻略のために兵3000を伴い出陣。伊東軍は緒戦では数の上で優勢であったが、兵の疲れが見られ、木崎原に引き上げてきたところを寡兵の島津軍に挟撃され総崩れになった(木崎原の戦い)。祐安は敗走する伊東勢の殿を務めたが、子の祐次(源四郎)の戦死を知ると、敵の大将・島津義弘に仇を討つため引き返し、村尾重侯の家臣・二階堂四郎左衛門に脇下を射抜かれ戦死したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊東祐安」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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