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伊東 祐清(いとう すけきよ)は、平安時代末期の武将。伊豆国の豪族・伊東祐親の次男。諱は祐兼、祐長(『曽我物語』)、祐氏(『平家物語』)、祐忠(『尊卑分脈』)とも〔『吾妻鏡』治承4年10月19日条に祐泰とあるが、祐清の誤り。〕。 == 生涯 == 源頼朝の乳母である比企尼の三女を妻としており、伊豆の流人であった頼朝と親交があった。安元元年(1175年)9月頃、平家の家人である父の祐親が頼朝を討とうとした際、頼朝に身の危険を知らせて逃がしている。『曽我物語』によると、自身の烏帽子親である事から、北条時政を頼るように頼朝に薦めたという。 治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵ののち、平家方であった祐親と祐清父子は頼朝軍に捕らえられた。その際、頼朝は祐清にかつて自分を助けた事による恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上、その子である自分が恩賞を受ける事は出来ないとして暇を乞い、平家に味方するために上洛した〔『吾妻鏡』治承4年10月19日条〕。 その後、平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にした〔『吾妻鏡』建久4年6月1日条〕。祐清の妻は義兄・祐泰が工藤祐経に討たれた後、生後間もない祐泰の子(曾我兄弟の弟で僧となる)を引き取り、祐清と死別したのちに子を伴って平賀義信に再嫁している。 『平家物語』(覚一本)では、篠原合戦で伊東九郎祐氏が討ち死にしたとある。 なお、『吾妻鏡』寿永2年(1182年)2月15日条では、祐親が自害を遂げた際、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したとし、合戦で討ち死にしたとする建久4年6月1日条の記述と矛盾している。寿永2年2月15日条と治承4年10月19日条は、どちらも父に従う祐清の態度を孝道の美談としている。 また、後北条氏・徳川氏に仕えた仁杉氏の系譜によれば、通説では工藤祐経の子とされる伊東祐光を祐清の子として掲載して仁杉氏をその子孫と位置づけている〔盛本昌広「戦国期仁杉氏の動向」(初出:『伊東市史研究』第7号(2008年)/所収:盛本『中世南関東の港湾都市と交通』(岩田書院、2010年) ISBN 978-4-87294-601-7)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊東祐清」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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