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伊藤みどり : ミニ英和和英辞書
伊藤みどり[いとう みどり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 

伊藤みどり : ウィキペディア日本語版
伊藤みどり[いとう みどり]

伊藤 みどり(いとう みどり、1969年8月13日 - )は、日本フィギュアスケート選手(女子シングル)。愛知県名古屋市出身。東海女子高等学校(現、東海学園高等学校)、東海学園女子短期大学卒業〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.93, p.109〕。
1992年アルベールビルオリンピック女子シングル銀メダリスト。1989年世界選手権優勝。1988年カルガリーオリンピック5位入賞。1985年から1992年まで全日本選手権8連覇。女子選手として世界初の3回転アクセルや3回転-3回転連続ジャンプに成功した。
1989年に「もっとも高得点をとったフィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載〔『ギネス世界記録 2009 JAPAN』 ゴマブックス p.136〕。2004年には、日本人として初めて世界フィギュアスケート殿堂入り。2007年、国際スケート連盟 (ISU) は「伊藤はたった一人の力で女子フィギュアスケートを21世紀へと導いた」との声明を発表した。
== 人物 ==
三人兄妹の真ん中で、兄と妹がいる〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.23〕。伊藤が小学1年の時に両親は離婚し、子供たちは母親に引き取られる〔「伊藤みどりとその時代」『20世紀スポーツ列伝―世界に挑んだ日本人』 読売新聞運動部著 p.227〕。
スケートを始めた頃は、全日本選手権を8連覇した渡部絵美に憧れていた〔『フィギュアスケートの魔力』 梅田香子、今川知子著 文芸春秋 2004年11月 p.43〕。12歳当時の将来の目標は、オリンピックや世界選手権でメダルを取ること、夢はアイスショーに出演することであった〔「超ミニの大器 伊藤みどり フィギュアスケート選手」『読売新聞夕刊』昭和56年11月28日 (1)〕。プロフィギュアスケーターの西田美和とは、ジュニア大会のデビューが同期で、文通相手でもあった〔http://blog.livedoor.jp/nishidamiwa/ 西田美和/公式ブログ〕。東海女子高等学校では、遠征のときを除けばほぼ無遅刻無欠席で通した〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.101〕。東海学園女子短期大学に進学し、家政学科人間関係コースで出羽秀明のゼミに参加して、「塩の道」をテーマに卒業論文を書いた〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.111〕。卒業後はプリンスホテルに就職する〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.165〕。1991年12月には母校である東海学園女子短大に「伊藤みどりメモリアルホール」が作られている〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.144〕。
10歳のころから早朝、深夜の練習のためコーチの山田満知子の家に寝泊りするようになり〔山田満知子著『素直な心が才能を伸ばす!』青春出版社、2007年4月、p.37(同書には「小さい頃から引き取って」とある)〕、中学2年生のときには山田コーチ宅に住むようになる。山田の家族には伊藤と同い年の一人娘がいたが、家庭では伊藤の方が威張っていた〔「伊藤みどりとその時代」『20世紀スポーツ列伝―世界に挑んだ日本人』 読売新聞運動部著 p.228〕〔『素直な心が才能を伸ばす!』 p.48〕ほどであった。
小学生のときは偏食でがりがりに痩せており、肉と野菜は一切食べず、魚もサンマとイワシ以外はほとんど食べなかった〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.43-45〕。成長期・思春期に入ると、偏食は治り、肉が好物になったものの、今度は体重管理に苦労した〔小林公子「Eat to win 勝つために食べる 伊藤みどり」『Number 1985/1/20号』pp.136-137〕。中学時代には右足首を2度骨折している〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』pp.84-92〕。最初の骨折は、体重が1年で9kgも増加してジャンプの着地で足首に大きな負担がかかったのが原因だった。骨折以外のケガや故障も含めて、1992年に引退するまでの治療回数は500回にも上った〔「編集手帳」『読売新聞』 1992年2月23日 (1)〕。ジャンプの練習を重ねたため、かかとが角張って変形するようになった〔『フィギュアスケートの魔力』 梅田香子、今川知子著 文芸春秋 2004年11月 p.136〕。
性格は新しいもの好きで負けず嫌い。そのため反復練習が嫌いであった〔「日本の100年 第6部 冬の華 22 トリプルアクセルと歩む」『読売新聞』2009年7月24日 (23)〕。
中学時代には、伊藤の才能に着目した西武鉄道グループのオーナーである堤義明の経済的援助を受けるようになる〔『フィギュアスケートに懸ける人々-なぜ、いつから、日本は強くなったのか』 (小学館101新書) 宇都宮直子著 小学館 2010年1月14日 ISBN-13: 978-4098250684 p.148〕。高校時代にはアメリカへのスケート留学の誘いがあったが、山田のもとに残ることを選んだ〔『タイム・パッセージ ~時間旅行~』p.134〕。プロに転向してからも、人気のあるフランス〔 『フィギュアスケートに懸ける人々-なぜ、いつから、日本は強くなったのか』 (小学館101新書) 宇都宮直子著 小学館 2010年1月14日 ISBN-13: 978-4098250684 p.166〕や北米のアイスショーへの出演の話もあったが、日本のプリンスアイスワールドでのプロ活動を選ぶ〔『フィギュアスケートの魔力』 梅田香子、今川知子著 文芸春秋 2004年11月 p.156〕。
2004年に元劇団四季所属のミュージカル俳優の八巻大と結婚したが、2006年に離婚する。その後2009年9月に一般人男性と再婚した。
== 経歴 ==

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊藤みどり」の詳細全文を読む




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