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伊藤 八兵衛(いとう はちべい、1813年(文化10年) - 1878年(明治11年)9月)は、幕末の豪商。画家・淡島椿岳は実弟にあたる。 == 略歴 == 武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、豪農・内田善蔵の長男として生まれた。 末弟の米三郎(後の淡島椿岳)と2人で川越を発ち江戸に出て、小石川伝通院前の伊勢屋長兵衛方で奉公する。伊勢屋長兵衛は「伊勢長」(いせちょう)という江戸きっての質商であった。八兵衛はそこで頭角を現わし、伊勢屋の一族であり「京橋十人衆」と謳われた幕府の大御用商人である伊藤家の婿養子となる。これを「天下の大富豪」と仰がれるようにしたのは八兵衛の努力・才覚であった。八兵衛は本所の油堀に油会所を建て、金穀その他の運上を扱うなど急成長をし、その成功は幕末に頂巓に達し、江戸一の大富限者として第一に指を折られた。 元治元年、水戸藩の天狗党が旗上げした際、八兵衛は後楽園に呼び出され小判五万両の賦金を命ぜられると、小判五万両の才覚は難かしいが二分金なら三万両を御用立て申しましょうと答えて、即座に二分金の耳を揃えて三万両を出したと言われる。明治維新の時にも、三井の献金は三万両だったが八兵衛は五万両を献上した。また、七十万両の古金銀を石の蓋匣に入れて地中に埋蔵したと言われる。明治時代の雑誌「太陽」の創刊号に「伊藤八兵衛伝」という記事が出るほどであった。 渋沢栄一は八兵衛の元で丁稚奉公し、八兵衛の次女・兼子は渋沢栄一の妻となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤八兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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