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伊藤初代 : ミニ英和和英辞書
伊藤初代[いとう はつよ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はつ]
  1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new 
初代 : [しょだい]
 【名詞】 1. first generation 2. founder 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

伊藤初代 : ウィキペディア日本語版
伊藤初代[いとう はつよ]

伊藤 初代(いとう はつよ、1906年明治39年)9月16日 - 1951年昭和26年)2月27日)は、川端康成の元婚約者。15歳の時に22歳の川端と婚約し、その1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である〔川端康成「父母への手紙」(第一信)(若草 1932年1月号に掲載)。、、に所収。〕〔川端康成「あとがき」(『川端康成全集第2巻 温泉宿』)(新潮社、1948年8月)。に所収。〕。その事件による失意が川端の生涯の転機となり、様々な作品に深い影響を与えたことで知られる〔長谷川泉「川端康成における詩と真実」()〕〔三枝康高「特別レポート 川端康成の初恋」(『川端康成入門』)(有精堂、1969年4月)。「川端康成の初恋」(図書新聞 1973年1月1日号に掲載)。〕〔川嶋至「『伊豆の踊子』を彩る女性」(上・下)(北海道大学国文学会 国語国文 第18・19号、20号、1961年3月、12月)。〕。川端の永遠に満たされることのなかった青春の幼い愛は、清潔な少女へのや、聖処女の面影への憧憬を残し、孤児の生い立ちの克服という命題と融合しながら独自の基盤をなして、川端文学の形成に寄与した〔〔〔長谷川泉「川端文学とノーベル賞――盈虚の美学の微茫な接点」()〕〔〔〔。
伊藤初代との事件を直接題材にした作品群は、発表当時は刊行本収録されず、川端の数え年50歳を記念した全集に初収録され、川端自身が「あとがき」において当時の日記実名部分は仮名みち子)を交えて半生を振り返りながら、そのモデルの存在について初めて具体的に詳らかにした〔川端康成「あとがき」(『川端康成全集』全16巻本)(新潮社、1948年5月-1954年4月)。のち、「あとがき」をまとめてに再録。〕〔羽鳥徹哉「川端康成・愛の体験」(愛知教育大学国語国文学報 第29号、1976年3月)。のち「愛の体験・第一部」としてに所収。〕。それ以降、その事件と川端文学との関連が論者の間で考慮され始め、川端のノーベル文学賞受賞以後は、より詳細な研究が進み、「伊藤初代」の実名や家族関係などが明らかとなり〔、川端没後は、さらに新たな事実関係や周辺人物の実名・地名が解明された〔。
2014年(平成26年)には、川端が初代に宛てた未投函の書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見され、川端が小説内で引用した文面との関連が確認された〔「川端康成 初恋の手紙発見」(読売新聞 2014年7月9日号に掲載)〕〔 川端康成の若き日の恋文発見「ある非常」別れ告げられ…作品背景実証の貴重な資料 産経ニュース 2014年7月9日付)〕。また同年、初代の遺族証言により、であった婚約破棄通告の真相の一端が事実であった可能性が明らかとなり、川端研究再考の一助となった〔。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
1906年(明治39年)9月16日、父・伊藤忠吉と、母・大塚サイの間の長女として、福島県若松市(現・会津若松市)川原町25番地の若松第4尋常小学校(現・城西小学校)の使丁室(用務員室)で誕生〔〔菊池一夫『川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯』(江刺文化懇話会、1991年2月)。『エランの窓 伊藤初代の生涯続編』(江刺文化懇話会、1993年2月)。、、〕〔。母・サイは臨時手伝いの用務員として時々学校で働いていたため、そこでの出産となり、「初代(ハツヨ)」という名前は、校長の長谷川代吉が名付けた〔〔。その時、伊藤忠吉とサイはまだ正式入籍しておらず、生れたばかりの初代は母方の祖父・大塚源蔵の戸籍内で、サイの私生子として届けられた(戸籍名はハツヨ)〔〔〔田村嘉勝「『伊豆の踊子』論―踊子・薫の二面性をめぐって―」(福島大学国語国文会 言文 第23号、1975年11月)。「伝記的事実の信頼性について―菊池一夫著『川端康成の許嫁者・伊藤初代の生涯』を読んで―」(解釈 1992年1月号に掲載)。、〕。
伊藤忠吉は、岩手県江刺郡岩谷堂字上堰14番地(現・奥州市江刺区岩谷堂)の出身で、大きな農家長男であったが、土地の風習で長子である姉・つねよが婿養子を迎えて伊藤家を継いだため、忠吉は同村の菅原家の婿入りし二児を儲けた〔菅野謙『川端康成と岩谷堂』(江刺文化懇話会、1972年12月)。〕。しかし忠吉の結婚生活はうまくいかず離婚し、職を求めて1897年(明治30年)に故郷を出て、北海道仙台市を経て福島県若松市に渡っていた〔〔〔。
サイの父・大塚源蔵(祖父)は、福島県若松博労町字博労町94番地(現・会津若松市上町博労町4-24)で雑貨商を営み、かつては鶴ヶ城に出入りする御用商人であった〔〔。源蔵は孫・初代が生れた3年後に、長女である娘・サイと伊藤忠吉の結婚を認め、忠吉は1909年(明治42年)8月17日、同市西名子屋町39番地(現・日新町)に戸籍を立て婚姻届を出した〔〔〔〔長谷川泉「出世作『伊豆の踊子』の慕情」()〕。
サイは忠吉の籍に入り、ハツヨ(初代)は嫡出子となった〔。若松第4尋常小学校の沿革史の1911年(明治44年)3月1日の項には、前任者退職の後をうけて「同日ニ於イテ 伊藤忠吉月俸五円、同サイ月俸四円ニテ使丁ノ任命アリ」と記載されている〔〔。夫婦は小学校の使丁室に住み込みで働き、1913年(大正2年)1月19日に同所で、初代のとなる次女・マキが生れた〔〔〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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