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伊藤 雋吉(いとう としよし、天保11年3月28日(1840年4月30日) - 大正10年(1921年)4月10日)は、幕末期の武士、明治・大正期の海軍軍人。海軍中将正二位勲一等功三級男爵。幼名を徳太、雋吉(しゅんきち)。 == 経歴 == 丹後田辺藩(舞鶴藩)士伊藤勝助の嫡男として、手代町(現京都府舞鶴市宮津口)に生まれる。幼児から和漢書を読み解き、特に数学に堪能で、問題を与えられると瑞光寺の墓地で解いたという。やがて藩命により江戸へ出て、大村益次郎の門下で蘭学・兵学・数学を学んだ。 明治4年(1871年)、「春日」、「日進」、「筑波」等の艦長を歴任した後、海軍兵学寮に勤務する。同次長・監学課長等を経て、再び海上勤務に戻り、1878年(明治11年)には回航されたばかりの最新鋭艦「金剛」の艦長に就任した。この間、水路測定に功があり、その後は海軍兵学校長、海軍次官、海軍参謀部長(後に参謀部長の役職名は海軍軍令部総長)を歴任した。1882年(明治15年)には、海軍少将の身分のまま共同運輸会社社長に就任した。海軍中将まで昇進の後、1908年3月28日に退役した〔『官報』第7424号、明治41年3月30日。〕。 1899年7月〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』94頁。〕、政界に転じて貴族院勅選議員となる。1895年(明治28年)8月20日、日清戦争における軍功により男爵を授けられた。 詩文に長じ、書は巧みで艦名の文字いろは四十八文字などを残した。ちなみに、その一部は現在海上自衛隊でも使われている(空母「赤城」の「あ」と「き」が、護衛艦「たかつき」の「か」と「き」として継承されている)。 明治期の海軍軍人としては知名度がそれほど高くないが、舞鶴藩出身で爵位を受けたのは最後の藩主牧野弼成と伊藤の2人だけであり、地元では稀代の偉人として尊敬されているという。 墓所は品川区の海晏寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤雋吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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