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伊藤 小左衛門(いとう こざえもん)は、江戸時代初期の福岡藩の人物である。博多の地で2代にわたって活躍した豪商であり、ここでは主に2代目小左衛門(? - 寛文7年(1667年))について扱う。 == 生涯 == === 半生 === 博多に出て、その商才を発揮して財を築いた初代の跡を継いだ2代目小左衛門は、同じく博多の豪商である大賀宗伯とともに福岡藩主黒田氏の御用商人となった。そして、長崎代官の末次平蔵や西村隼人・大賀九郎左衛門ら商人達とともに、直接朱印船を派遣することの無かった黒田氏に代わって海外との貿易活動を行った。 そして正保4年(1647年)6月、ポルトガル船が来航禁止令を破って長崎に入港して貿易再開を願い出た際、当時の長崎警備役であった福岡藩2代目藩主黒田忠之のため大いに尽力し、これを賞せられて50人扶持を与えられた。 浜口町〔現在の福岡県福岡市博多区下呉服町と中呉服町にあたる。〕に在住していたが、やがて長崎にも出店を設けて移り住んだ。船津町や浦五島町などにも屋敷を構えて、博多と往来して商売し、長崎奉行の接待のため五島町の屋敷を提供するほどにもなっていた。この当時、小左衛門は毎年銀10貫を消費し、通詞や乙名から銀7000貫以上の資産をもつと噂された〔『長崎オランダ商館の日記』。〕。それだけの資産を得るに至った背景には、出雲産や広島産の鉄類の売買や武器の生産に従事したこと〔『西村家文書』。〕だけでなく、中国・朝鮮との密貿易による利益もあったといわれる。また、明の復興を願い清と戦った鄭成功とも何度も貿易を行ったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤小左衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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