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伊藤 律(いとう りつ、1913年6月27日 - 1989年8月7日)は日本の政治運動家。元日本共産党政治局員。岐阜県土岐郡土岐村市原(現・瑞浪市)出身(広島県生まれ〔日外アソシエーツ『近代日本社会運動史人物大事典』1997年、p340に「出生は父連次郎の勤務先広島」と記述されている(近代日本社会運動史人物大事典編集委員会編 『近代日本社会運動史人物大事典』 日外アソシエ-ツ)。〕)。幼名は、恵一。中国名は、顧青。 == 生涯 == === 共産青年同盟時代まで === 父連次郎の勤務先広島で生まれる〔。間もなく父の故郷岐阜県瑞浪に戻る〔。幼少期から神童の誉れが高かったといわれ、旧制岐阜県立恵那中学校(現・岐阜県立恵那高等学校)4年生修了後、1930年に第一高等学校(現・東京大学教養学部)に入学する(飛び級入学。いわゆる「四修進学」)。同期に後に作家となる杉浦明平がいた。杉浦の後年の回想では、入学の時点で伊藤はすでに社会主義に関心を持ち、1年生から読書会を主催していたという〔渡部(1993年)p127〕。2年生の1931年初秋に共産青年同盟に加盟し、国際反帝反戦同盟東京委員会印刷局に加入〔渡部(1993年)p128〕。この頃は昼は学校と家庭教師のアルバイトをこなし、夜に組織の印刷物を作成・配布する生活を送っていた〔。伊藤は、特別高等警察(特高)によって壊滅した一高の共産青年同盟を再建する任務に当たったが、やがて当局の察知するところとなり、1932年9月に地下に潜行、12月に放校処分を受ける〔。伊藤は東京城西地区の大学へのオルグ活動を担当する。特に東京商大(現・一橋大学)では「籠城事件」後の学生の盛り上がりに伊藤の活動が加わり、学内の共産青年同盟は60人の規模に伸張した〔渡部(1993年)p138(当時東京商大学生だった松岡貞雄の回想)〕。しかし、1933年2月には特高の検挙で東京商大の組織は壊滅状態となった。 同じ2月に伊藤は共産青年同盟の中央事務局長となり、3月13日に正式に日本共産党に入党した〔渡部(1993年)p412〕。だが、同年5月16日に検挙され、大崎警察署に検束される。伊藤の共産党入党は三船留吉・今井藤一郎の推薦によるものだったが、この二人は特高のスパイであり、検挙も三船が手引きした結果だった〔渡部(1993年)p147〕。市谷刑務所・豊多摩刑務所へと移送され、予審が終了した1934年12月25日に保釈された。1935年4月16日、東京地方裁判所で懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受ける。この取り調べで転向を表明するが、取り調べた特高の宮下弘はそれを認めずに起訴して検察に送ったと後に述べている〔渡部(1993年)p144 - 145(宮下の著書『特高の回想』田畑書店、1978年からの引用)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤律」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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