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伊藤 昌庸(いとう まさつね、1880年(明治13年)6月20日〔『人事興信録』第10版 上、イ84頁。〕 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚、教育者。官選香川県知事。 ==経歴== 山形県南村山郡山形香澄町(現:山形市香澄町)で、旧山形藩士・伊藤喜惣の二男として生まれる〔『日本の歴代知事』第3巻上、431頁。〕〔『逓信畠の先輩巡礼』260頁。〕。貧しさのため小学校入学は9歳で、1894年にはその小学校も退学して山形県庁の給仕として採用され、床次竹二郎内務部長付となる。山形郵便局雇員に転じ、書記補試験に合格〔『逓信畠の先輩巡礼』262-263頁。〕。 その後、山形県尋常中学校4年に編入し、1900年に卒業。中学同期生の鈴木美通(後に陸軍中将)と共に陸軍士官学校を受験したが、眼病のため不合格となる。1904年、東京高等師範学校英語専修科を卒業し、北海道師範学校教諭に就任。1909年、東京高師研究科に入学し、1911年に卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入省し埼玉県属となる〔『逓信畠の先輩巡礼』264-266頁。〕〔「高師出身 新局長の略歴」〕〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』200頁。〕。 以後、埼玉県警視、同理事官・勧業課長、同庶務課長、新潟県理事官・学務課長、島根県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、大分県書記官・内務部長、福島県書記官・内務部長などを歴任し、1929年に退官〔〔〔『逓信畠の先輩巡礼』267頁。〕。 1931年12月18日、香川県知事として復帰〔。1932年6月28日に知事を休職〔『官報』第1648号、昭和7年6月29日。〕。1933年6月20日に依願免本官となり退官した〔『官報』第1940号、昭和8年6月21日。〕。 1934年3月、帝都教育疑獄への対策のため東京市教育局長に登用され、1937年11月まで在任した〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤昌庸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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