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伊藤松和 : ミニ英和和英辞書
伊藤松和[いとう しょうわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

伊藤松和 : ウィキペディア日本語版
伊藤松和[いとう しょうわ]
伊藤 松和(いとう しょうわ、享和元年(1801年) - 明治11年(1878年))は、江戸明治時代囲碁棋士名古屋出身、本因坊元丈門下、八段準名人。幼名は松次郎。天保四傑の一人として数えられる幕末の強手で、軽妙、機知に富む碁風、雅韻があったとも言われる。
== 経歴 ==
商人の家に生まれ、幼時に加藤隆和とともに名古屋在住の伊藤子元に入門。尾張徳川家の藩士が素質を見込み、文化9年(1812年)12歳で江戸へ登って本因坊元丈に入門。一旦帰郷するが再度奮起して江戸に戻り、本因坊丈和の教えを受け、文政5年(1822年)に初段を許される。五段まで昇った後に帰郷、尾張の松次郎として名を馳せ、天保2年(1831年)には尾州候御目見えの上で名字帯刀を許される。天保8年(1837年)に西国遊歴し、尾道に立ち寄った際に9歳で初段近かった安田栄斎(本因坊秀策)と対局。当初秀策に対し「座敷ホイト」(ホイトは乞食の意味)と放言したが、対局してみて9歳と思えない碁に感嘆した。後に秀策が本因坊跡目になった際、松和は自ら前記の放言の謝罪に訪れたところ、秀策は「自分を奮い立たせた発言であった」と逆に感謝したとされる。
天保11年に再度江戸に出て、本因坊丈策より六段を許される。嘉永2年(1849年)には家元四家外としては珍しく七段に進み、松和と改名、49歳で本因坊秀策とともに御城碁に初出仕、幕府より十人扶持を受けるようになる。
御城碁は文久元年(1861年)まで19局を勤める。そのうち秀策とは4局あり松和全敗。最初の対戦は松和、秀策ともに御城碁3局目にあたる嘉永3年(1850年)の局で、秀策先相先3目勝ちとなったものの、終盤の劫争いで逆転するまで白が優勢を保ち、秀策の御城碁19連勝のうちで最も苦戦した碁と言われ、松和を高く評価する因となった。
神田お玉ヶ池の千葉周作道場の近くに教場を開き賑わったが、火災に遭い上野山下に転居。教場はなおも繁盛したため、明治維新によっても伊藤は生活に苦心することはなかったという。明治3年(1869年)に林秀栄(後の本因坊秀栄)四段と先二の十番碁を打ち、2勝7敗1持碁とする。その後八段準名人に推された。明治11年に上野の自宅で死去。性格温和であったとされる。また酒好きで、1日3度飲んだという。門下に杉山千和、梶川昇、森左抦、他に濃尾地方に数多い。弟の安次郎は四段まで昇った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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