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伊藤 果(いとう はたす、1950年9月16日 - )は、将棋棋士。改名前の氏名は伊藤喜和。2011年、引退。高柳敏夫名誉九段門下。棋士番号は118。京都府京都市南区出身。 == 棋歴 == 11歳、小学5年生の頃、父から無理やり将棋を教えられる〔平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)〕。 1963年、実戦経験が少なくアマチュア5、6級であったにもかかわらず〔「将棋世界」(日本将棋連盟)2000年1月号付録〕奨励会試験を受験して合格し、南口繁一九段門で関西奨励会に6級で入会。「記録要員」としての合格〔と言われた。ところが、1か月で5級に上がり、半年後には2級に到達する。 旧制三段リーグ(奨励会A組)への参加は1967年度後期からである。9期・4年半指した後、1972年に半年休場。この頃、喜和から果に改名し、また、南口門から関東の高柳門に移る。以降、3期・1年半指したところで三段リーグ制度が廃止。それから約1年後の1975年6月19日、よいとこ取り12勝4敗の規定により四段昇段( = プロ入り)。なお、三段時代の1973年度、第17回古豪新鋭戦で準優勝している(優勝は森安秀光)。 1979年度、12連勝(全棋士中1位)を記録し、将棋大賞の連勝賞を受賞。 第21期(1980年度)王位戦でリーグ入り。 初参加から4期目のC級2組順位戦(第39期、1980年度)で、7勝3敗の成績ながら前期の好成績による高順位が活き、3位でC級1組へ昇級〔当期は、同様の理由で鈴木輝彦も7勝3敗の成績でありながら3位でC級1組へ昇級を決めた。3敗でのC級1組昇級は珍しく、鈴木及び伊藤を最後に出ていない。〕。また、第12回(1981年度)新人王戦で準優勝(優勝は田中寅彦)。さらには、本戦出場者が50人となってから初めてのNHK杯戦(第31回、1981年度)で準優勝(優勝は加藤一二三)。これらの活躍の原動力〔となったのが、居飛車穴熊への対策として〔自ら考案した「風車」戦法であった。相手の攻めに備えることに特化した戦法である。 第8期(1995年度)竜王戦2組で屋敷伸之・森雞二に勝って先崎学に敗れた後、昇級者決定戦決勝に回り、森内俊之に勝って2組3位で1組昇級。次期(1996年度)は初戦で米長邦雄に勝ち、1組残留。第10期(1997年度)は残留決定戦で羽生善治に敗れ、2組降級。 第14期(2001年度)竜王戦3組の昇級者決定戦を制し、2組に復帰。同年度、第20回朝日オープン将棋選手権で予選を突破するが、本戦初戦で羽生に敗れる。 第60期(2001年度)C級2組順位戦で累積3つ目の降級点を喫し、フリークラスに陥落。以降、順位戦への復帰を果たせないまま年齢制限となる還暦を迎え、2011年6月7日の対・佐藤慎一戦(竜王戦6組)での敗戦を最後に同日付で引退〔日本将棋連盟ホームページ・お知らせ「伊藤果七段が引退 」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤果」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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