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伊藤 武郎(いとう たけろう、1910年7月17日 - 2001年11月29日〔伊藤武郎 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2009年12月23日閲覧。〕)は、日本の 映画プロデューサー、労働運動家である。日本映画演劇労働組合の初代委員長として、東宝争議を指揮した。本名伊藤 武男(いとう たけお)〔。 == 人物・来歴 == 1910年(明治43年)7月17日、福井県に「伊藤武男」として生まれる〔。 東京に移り、早稲田大学に入学〔、同学を卒業後の1937年(昭和12年)、東宝映画(現在の東宝)に入社する〔。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、1942年(昭和17年)、渡辺邦男監督の『武蔵坊弁慶』で伊藤基彦とともに初めて「製作」に名を連ね、映画プロデューサーとなる。 第二次世界大戦終結の翌年、1946年(昭和21年)2月に東宝撮影所で東宝争議が起きる〔日映演 、大原デジタルライブラリー、法政大学大原社会問題研究所、2009年12月23日閲覧。〕。同年4月28日、映画・演劇の産業別労働組合である日本映画演劇労働組合(日映演)を1万人を超える組織人員で結成、初代委員長に就任する〔日本映画演劇労働組合 、法政大学大原社会問題研究所、2009年12月23日閲覧。〕。1947年(昭和22年)には、山本薩夫・亀井文夫共同監督、宮島義勇撮影による映画『戦争と平和』をプロデュースし〔、同年7月22日に東宝が配給して公開される〔戦争と平和 、日本映画データベース、2009年12月23日閲覧。〕。1948年(昭和23年)4月8日、伊藤は、東宝から他の270名とともに解雇を通告され、第3次争議が勃発する〔。伊藤は会社側と折衝し、自らを含む争議指導者20人の解雇と引き換えに、一方的な大量解雇を撤回、要求を貫徹した〔〔〔中央映画撮影所 、調布市立図書館、2009年12月23日閲覧。〕。 東宝退社後、1950年(昭和25年)、新星映画を設立し、映画をプロデュースしつづけた〔〔。1953年(昭和28年)には新世紀映画を設立、1954年(昭和29年)には独立系配給会社北星映画が破綻し、独立映画となったので、同社の代表に就任した〔。同年、新星映画、キヌタプロダクションのスタッフを結集して中央映画を設立、調布市に中央映画撮影所を建設・オープンした〔。同撮影所は1957年(昭和32年)ころまでは稼働したが、調布映画撮影所と社名を変更し、レンタルスタジオになったあと、1960年(昭和35年)には取り壊された〔。 2001年(平成13年)11月29日、肺炎のため死去した〔〔逝去2001 、日刊スポーツ、2009年12月23日閲覧。〕。満91歳没。『戦争と平和』、『人間の壁』、『どっこい生きてる』、『ひめゆりの塔』がおもな代表作である〔。1976年、日本映画テレビプロデューサー協会よりエランドール賞が贈与。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤武郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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