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伊藤 圭介(いとう けいすけ、享和3年1月27日(1803年2月18日) - 明治34年(1901年)1月20日)は、幕末から明治期に活躍した理学博士。男爵。「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作った事でも知られる。尾張国名古屋(現愛知県名古屋市)出身。名は舜民、清民。 字は戴堯、圭介。号は錦。 == 生涯 == * 享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれる。 * 文政3年(1820年)、町医の資格を得て開業。 * 文政4年(1821年)、京都に遊学し、藤林泰助より蘭学を学ぶ。 * 文政10年(1827年)、長崎にてシーボルトより本草学を学ぶ。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの『日本植物誌』を受け取った。これを翻訳し、文政12年(1829年)、『泰西本草名疏』を刊行した。 * 嘉永5年(1852年)、尾張藩より種痘法取調を命ぜられた。 * 文久元年(1861年)、幕府の蕃書調所物産所出役に登用される。 * 明治3年(1870年)、名古屋を離れて東京に移り住み、明治政府に仕えた。そして同14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられた。同21年(1888年)、日本初の理学博士の学位を受けた。また初代の東京学士会院会員となった。 * 明治34年(1901年)、慢性胃腸炎のため〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)4頁〕98歳で永眠。死に臨んで、学者として初の男爵を授けられた。墓所は谷中天王寺墓地。愛知県名古屋市の平和公園に碑が建立されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊藤圭介 (理学博士)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Keisuke Ito 」があります。 スポンサード リンク
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