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伊賀氏の変(いがしのへん)は、鎌倉時代前期の貞応3年(1224年)6月から閏7月にかけて伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。 == 経過 == 第2代執権・北条義時の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻(継室)・伊賀の方が、伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策した〔 森幸夫『人物叢書‐北条重時』吉川弘文館、2009年、p.14〕。 伊賀光宗は鎌倉御家人の中でも実力があり、政村の烏帽子親である三浦義村と結ぼうとするが、伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は義時の長男であった北条泰時を執権に就任させる。また、三浦義村に対し泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐことに成功した〔。 これにより伊賀氏の陰謀は頓挫する〔。伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、実雅は越前へ配流となった〔。 しかし彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は厳罰を免れ〔、後に評定衆・引付頭人・連署など要職を経て第7代執権に就任し、終始得宗家に忠実な姿勢を働いた〔 高橋慎一朗『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.151〕。また、主犯として処罰を受けた光宗も、後年幕政への復帰を許されるなど、寛大な措置が採られた。まだ幕府は黎明期で体制が安定しておらず、あまりにも厳重な処分を下せば波紋が広がり幕府の基盤が揺らぐという憂慮に基づく裁定だったという〔上横手雅敬『鎌倉時代 その光と影』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、1994年、p.198〕。『吾妻鏡』では泰時の温情としている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊賀氏の変」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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