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伊賀 氏広(いが うじひろ、1886年9月8日 - 1966年2月25日)は、日本の飛行機製作の先駆者。男爵。南部信俊の父。 == 略歴 == *1886年(明治19年)9月8日 - 山内容堂の弟・山内豊盈の子として高知市に生まれる。伊賀氏12代氏成(伊賀陽太郎)の養子になる。 *1899年(明治32年) - 高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。 *1904年(明治37年) - 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 *東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学するも1907年(明治40年)に中退。その後飛行機に興味を持ち研究。 *1910年(明治43年) - 「浮揚面を傾斜せしめて進行し、翼の裏面に風圧を受けて空中に浮揚すべき構造」の双葉飛行機模型を製作。東京帝国大学教授田中舘橘愛博士のすすめにより「伊賀式双葉空中飛行機」の名で特許をとる。 *1911年(明治44年) - 「伊賀式滑空機」を完成したが、飛行には失敗した。同年国産第1号の飛行機「伊賀式舞鶴号」を完成させたが、3気筒発動機の1気筒が動かず、馬力不足で滑走のみとなり、飛行には至らなかった。 *1913年(大正2年) - 故郷である宿毛に帰り、1930年(昭和5年)まで16年間一町民として暮らす。 *1915年(大正4年)5月19日 - 隠居〔『官報』第840号、大正4年5月22日。〕。 *1929年(昭和4年) - 地元消防団の近代化(機械式ポンプ導入など)への貢献が認められ、大日本消防協会高知県代議員となる。 *1930年(昭和5年) - 東京に移り1934年(昭和9年)日本ヂイゼル株式会社の設立に参加。設立後は営業部長を務める。ドイツのクルップ/ユンカースと提携して、日本の自動車開発につとめた。 *1942年(昭和17年) - 安達工業事務所長に。また竹中工具製作所の相談役でもあった。終戦と同時に退職し以後仏像研究で余生を送った。 *1966年(昭和41年)2月25日 - 没、79歳。墓所は宿毛東福寺山。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊賀氏広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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