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伊達 宗敦(だて むねあつ、1852年6月20日(嘉永5年5月3日) - 1911年(明治44年)1月6日〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』76頁。〕)は、仙台藩知事(在任中の伊達氏の当主は30世14代伊達宗基のまま)で、13代仙台藩主・伊達慶邦の養嗣子(のち廃嫡)、男爵。伊予国宇和島藩主・伊達宗城の次男(五男とも)。正室は広幡基豊の娘、継室は松根三楽の娘。官位は左京大夫、侍従、正四位。 == 概要 == 幼名は経丸。慶応4年(1868年)、第13代藩主・慶邦の養子となった。同年、慶邦の養嗣子として、従四位下侍従・左京大夫に叙任する。同年8月、奥羽列藩同盟に組したことから、養父慶邦とともに新政府から官位を剥奪される。11月、仙台藩の降伏にともない、養父慶邦とともに東京に護送されて、良源院で謹慎する。12月、養父慶邦が奥羽列藩同盟の盟主となったために新政府軍から隠居、謹慎を申し付けられたとき、宗敦も廃嫡された。なお、仙台藩伊達家は、養父慶邦の四男・宗基が跡を継いだ。 明治2年(1869年)9月、養父慶邦ともに謹慎を解かれる。同年、版籍奉還が行われ、宗基は知藩事になったものの、幼少のために政務を執ることができず、11月に宗敦は知藩事の補佐を命じられる。明治3年(1870年)10月、新政府は宗基の代わりに宗敦を新たな知藩事として任命した。宗敦は知藩事として実質的な政務を行ったが、伊達氏当主は宗基のままであり、伊達氏当主歴代には数えない。 明治4年(1871年)の廃藩置県後、イギリスに遊学した。明治17年(1884年)に新たに家を興し、明治21年(1888年)には男爵となった。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に当選し、四期連続で務める。 明治44年(1911年)に56歳で死去した。伊達男爵家は長男・宗経が継承している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊達宗敦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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