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伊達 宗贇(だて むねよし、寛文5年1月15日(1665年3月1日〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105〕)- 宝永8年2月18日(1711年4月5日〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105〕))は、伊予宇和島藩の第3代藩主。 陸奥仙台藩第3代藩主・伊達綱宗の三男〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104〕〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105〕。母は三沢氏(初子)〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105〕。正室は伊達宗利(宇和島藩第2代藩主)の次女・三保姫〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105〕。側室に佐藤氏、高橋氏、鴇田氏、中里氏、宮部氏など。仙台藩第4代藩主伊達綱村の次々弟にあたる〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104〕。 子は宗相(長男)、村年(三男)、村顕(四男)、桑折宗恒(六男)。官位は従四位下、遠江守、紀伊守、侍従。 == 生涯 == 寛文6年(1666年)に陸奥仙台藩の一門衆筆頭・角田石川氏の石川宗弘の養子となり、延宝7年(1679年)に元服する(石川氏時代は仙台藩主である父・綱宗、兄・綱基(綱村)より偏諱の授与を受けて石川宗昭(むねあき)、石川基弘(もとひろ)と名乗った)。しかし、貞享元年(1684年)3月13日、伊予宇和島藩主・宗利の次女と結婚し、その婿養子となり、伊達宗贇に改名。元禄6年(1693年)11月14日、宗利が隠居したためその跡を継いだ。鎧兜が残されているが、それから察すると非常な巨漢であった。なお、仙台藩主家からの直接の養子でなく陪臣の家を経ているため、仙台藩が宇和島藩を末家扱いとする一因となった。 藩政においては元禄9年(1696年)7月4日、所領が7万石の実収入のところを高直しで10万石と過大申告する。これは、初代藩主・秀宗が伊予吉田藩に分与した3万石分を補い、宇和島藩の10万石としての体面を保つためであった。そのために町人新田開発や藩営の新田開発を奨励するなどしたが、ただでさえ苦しかった藩財政がますます苦しくなり、倹約令や商人からの借金、家臣団の大減封を行なう有様であった。宝永4年(1707年)には大地震で宇和島城が倒壊する。 宝永8年(1711年)2月18日、47歳で死去し、跡を三男・村年が継いだ。法号は大玄院殿天山紹光大居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊達宗贇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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