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伊達 政道(だて まさみち)は、安土桃山時代の武将。伊達輝宗の次男。幼名は竺丸(じくまる)。通称の小次郎(こじろう)の名で知られており、「政道」とする名乗りを証明する当時の史料が現存せず〔死後175年経った1765年に建立された金上盛備墓の碑文には「政宗之弟正道」と書かれているため、その頃には「政道」若しくは「正道」だと認識されていた。〕、疑問視する学者もいる。 == 生涯 == 永禄11年(1568年)頃、伊達輝宗の次男として誕生。母は最上義守の娘・義姫で、伊達政宗の同母弟にあたる。 母の義姫は最上氏と対立した政宗よりも弟の小次郎を愛したため、伊達氏内部で政宗と小次郎による家督争いが起こったこともあるとされるが、輝宗は天正12年(1584年)には政宗に家督を譲っている。 天正15年(1587年)、蘆名氏の後継者問題が起こると、小次郎が蘆名氏の当主として推薦されたが、蘆名氏の執権である金上盛備の策略によって、佐竹義重の子・蘆名義広が当主となった。 天正18年(1590年)、急死。兄弟対立の末に政宗によって殺されたといわれている。旧来の説では政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するため母の義姫の招きを受けて赴いたとき、義姫と小次郎によって政宗は毒殺されかけ、これがきっかけで政宗自ら政道を殺害したといわれているが、これは出典が江戸時代の書物『治家記録』であるため、後世の創作であるともいわれており、政道の死因については謎が多い。創作においてはこの天正18年誅殺説が踏襲されることが多い。 現東京都あきる野市横沢にある大悲願寺の古文書では、同寺の住職となった秀雄は伊達輝宗の末子とされており、これが伊達政道であるともされている。それが事実であると、寛永19年7月26日(1642年)8月21日に没している。 なお、死後長らく政宗によって7代の勘当と言い渡されて勘当状態にあり、寛政5年(1793年)に政宗から数えて8代目の当主伊達斉村就任によってそれが解かれ、死後203年目にして法要が営まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊達政道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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