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伊達 斉邦(だて なりくに)は、陸奥仙台藩の第12代藩主。伊達氏第28代当主。登米伊達氏・伊達宗充(第5代藩主・伊達吉村の八男・伊達村良の子〔なお、史料により孫と表記されることがあるが、これは村良の跡を相続した伊達村幸の養子として宗充が登米伊達家を相続し、家系的には養孫となることによる。〕)の長男。母は片倉村典の娘。正室は第11代藩主・伊達斉義の娘・勁松院綵姫。 == 経歴 == 文化14年9月27日(1817年11月6日)登米郡寺池村の登米館にて出生。『仙台叢書』では文化14年5月28日出生とある。幼名は藤三郎、後に幸五郎。 文政2年5月(1819年)に男子がなかった藩主・伊達斉宗が病床に伏したために、後継者を選定する必要が生じ、当時2歳であった幸五郎(斉邦)が、陸奥仙台藩一門の涌谷伊達氏の源次郎(のちの伊達義基、当時12歳)、支藩一関藩主・田村宗顕養弟で従兄(父・宗充の実兄である田村村資の子)の田村顕嘉同様に藩主後継候補に挙がった。年齢や血縁の近さから田村顕嘉が伊達斉義として第11代藩主に就任する。 文政10年(1827年)1月25日に伊達斉義の婿養子となり、翌日に通称を総次郎と改めた。翌文政11年11月27日(1828年1月13日)に養父の斉義が没すると、斉義の実子である慶邦が幼少であったこともあり、同年12月 (旧暦)に家督相続した。 なお、『仙台叢書』などによると、斉義が実際に死去してから後継者が決まらずに喪を秘している期間があり、この間に老中(『三百藩家臣人名辞典』では水野忠成とする)より斉義の正室に徳川家斉の子息を婚姻させて家督相続させる案が提示されており、水面下では家督相続までに紆余曲折があった。(当時、江戸藩邸に詰めていた仙台藩若年寄の大條道直の項目参照) 文政11年1月23日(1828年)に諱を宗礼と称し、1月28日に徳川家斉に初御目見を得て従四位少将に叙任の上、陸奥守に任官し、また斉義と同様、「斉」の字を賜って斉邦と改名する。天保2年(1831年)には従四位上中将に進む。 天保8年(1837年)に斉義の娘である綵姫と婚礼を挙げ、同時に斉義の遺児で正室の実弟の穣三郎(後の伊達慶邦)を養嗣子とする〔なお、『仙台叢書』では天保7年(1836年)とする。〕。 学問を好み、大槻清準に謡曲の新曲を作らせるなど、文学面では功績が大きい。天保10年(1839年)に藩内困窮により江戸への参勤交代が延期となり、翌年(1840年)には脚症となり、天保12年7月24日(1841年9月9日)、25歳の若さで死去した。跡を養嗣子の寿村(慶邦)が継いだ。戒名は慈雲院殿竜山真珠大居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊達斉邦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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