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伊達 綱村(だて つなむら)は、陸奥仙台藩の第4代藩主で、伊達氏の第20代当主。3代藩主伊達綱宗の長男。母は三沢初子。 == 生涯 == 万治2年(1659年)3月8日、伊達綱宗の嫡男として生まれる(伊達政宗の曾孫に当たる)。幼名は亀千代丸。元服の際は父と同じく将軍・徳川家綱より偏諱を与えられて、初め綱基(つなもと)、後に綱村(つなむら)と名乗った〔伊達氏の通字である「宗」と組み合わせて「綱宗」とすると父と同名になるのを避けたものとみられる。「基」や「村」の字は祖先(伊達家第6代当主基宗や伊達家第2代当主宗村)の名前にちなんだものである。〕。 万治3年(1660年)、父・綱宗が隠居させられたため(詳しくは伊達綱宗を参照)、わずか2歳で家督を相続した。綱宗の叔父に当たる伊達宗勝(一関藩主)や、自身の叔父に当たる田村宗良(岩沼藩主)などが後見人となった。しかし、家中では父の時代から続く家臣団の対立や宗勝の専横などが続き、伊達氏の家中は混乱が続いた。しかも寛文6年(1666年)には、綱村自身が何者かの手(宗勝の側近)によって毒殺されかけるほどであった。 このような混乱続きの中、寛文11年(1671年)に伊達騒動(寛文事件)が勃発し、伊達氏は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなった。こうして、仙台藩は改易の危機から免れた。 その後、綱村は自ら政務を執り始める。まず防風林を設け、運河を開発するなどの治績で大きな成果を収めた。また、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力した。さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、元禄2年(1689年)から3年(1690年)にかけて日光東照宮修復総奉行井伊直興の御手伝として東照宮の修復を果たすなど「仙台藩中興の名君」と讃えられた。しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことがかえって藩財政を逼迫させることとなり、これを解決しようと天和3年(1683年)に藩札の発行を行なったが、かえって物価の高騰を招き、仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどった。 元禄6年(1693年)、藩主綱村中心の専制政治に対し、伊達一族は反発、諌言に及ぶ。そのため、綱村は謝罪状をしたためる。元禄10年(1697年)秋、綱村の政治姿勢は改まらず、家臣団は藩主の強制隠居を計画するものの、親族の稲葉正往らの反対で挫折する。元禄16年(1703年)、養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居した。 京都にある葉室家の菩提寺・浄住寺の方丈は元禄10年(1697年)に綱村の屋敷を移築したもの。 平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂は、天和3年(1683年)に綱村によって建立された。 享保4年(1719年)6月20日、死去。享年61(満60歳没)。法号は大年寺殿肯山全提大居士。大正13年(1924年)に従三位を追贈されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊達綱村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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