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伊集院 忠棟(いじゅういん ただむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。 == 生涯 == 島津氏の家臣・伊集院忠倉の子として誕生。初名は忠金で天正4年(1576年)までには忠棟と改名している〔長田弘通「天正年間以前の大友氏と島津氏」(初出:『大分県地方史』143号(1991年)/所収:八木直樹 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻 豊後大友氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-122-6)〕。 早くから島津義久に仕え、筆頭家老として島津氏の政務を取り仕切った。武将としても肥後国や筑前国などの出兵で多大な功績を挙げている。また、歌道にも優れ、細川藤孝と親交があり、豊臣秀吉の九州出兵以前から、豊臣氏と和睦の交渉を進めていたという。 天正15年(1587年)、秀吉率いる大軍の前に島津軍が次第に劣勢となると、忠棟は抗戦を主張する義久やその弟・義弘らに降伏を説いた。しかし、島津氏は秀吉との戦いを継続する。同年4月17日、義久・義弘が2万人の精鋭をもって豊臣秀長の陣を攻撃した際(根白坂の戦い)に、左軍の北郷時久の突撃と声を合図に、右軍を任されていた忠棟が進軍する手はずであったが、忠棟は聞こえなかったなどという理由で全く進軍しなかった。結果、北郷勢からは多数の死傷者が出て島津軍は退却を余儀なくされ、敗北を喫した〔出典:橋口嵐山著 『諸県興亡』〕。戦後、忠棟は剃髪して自らを人質として秀吉に降伏、島津家の赦免を願い出ており、義久らの説得に当たった。この時の忠棟の弁明により、島津氏存続が達成できたと評価する説もある。 秀吉は忠棟の能力を高く評価し、九州征伐後には直々に肝属一郡を与えられた〔秀吉は大名家の有力家臣に直接知行を与える形式を取った。島津家内では島津以久・北郷時久らが同様の扱いを受け、島津家中では御朱印衆と呼ばれた。他家の例では小早川隆景・鍋島直茂などが挙げられる。〕。以降は島津家の宿老として豊臣政権と直接交渉することが多くなり、石田三成ら奉行衆と昵懇になった。文禄4年(1595年)には領内で太閤検地が行われ、北郷氏に代わり日向諸県郡庄内の地に8万石の所領を与えられた。また、検地後の知行配分の責任者となったため、家中からの不満が彼に集中した。この後、権勢を誇るようになったため、島津宗家からも危険視されるようになった。 そして、慶長4年3月9日(1599年4月4日)、伏見の島津家邸で義弘の子・忠恒によって殺害された。忠棟夫人はことの次第を徳川家康に直訴すること3日に及んだが、家康は夫人の話す薩摩方言が理解できなかったという。また、洛北高雄の普賢院の僧が島津義弘の家臣に宛て、忠棟夫人と子らが方々で怨敵(=忠恒)退散の祈祷を頼んでいるので、忠恒の身辺に用心して欲しいという手紙を送ったという〔『南日本新聞』2013年4月1日号 桐野作人 伊集院忠真の暗殺と一族の滅亡 〕。 忠棟の死後、嫡男の忠真が家督を継いだが、領地の日向都之城に籠り庄内の乱を起こした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊集院忠棟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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