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見沼代用水(みぬまだいようすい)は、江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水のことである。名前の通り、灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至る。 埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている〔122p - 内閣府防災情報〕。疏水百選にも選定されている。 == 建設背景 == 江戸時代初期、関東郡代であった伊奈忠治は荒川下流の治水や新田開発を目的として、現在の元荒川を流れていた荒川を入間川へ付け替える工事を行った。同時期に、利根川も流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業が行われており、これらの川の付け替えは、元の流域周辺の水不足を招く恐れがあった。そこで、周囲の灌漑用水を確保するため、1629年、伊奈忠治は、天領浦和領内の川筋(現・芝川に当たる)をせき止める形で、長さ約870m(8町)の八丁堤(八町堤とも書く。現・埼玉県さいたま市緑区の大間木付近)と呼ばれる堤防を築き、見沼溜井(三沼、箕沼溜井とも書く)を作った。 見沼溜井の水は、桶川市末広を発する流れと桶川市小針領家を発する湧水などの他は、周囲の台地からの排水の流入しかなく、土砂の流入で溜井の貯水能力は次第に低下していった。さらに1675年(延宝3年)には溜井の一部が入江新田として干拓されるなど、見沼溜井周囲の新田開発が活発化すると水不足が深刻となった。水不足に悩む村々ではしばしば、水路普請の陳情を行っていた。元禄年間に岩槻藩や忍藩の協議で荒川より見沼に水を引き入れる案が練られ、一部では測量も行われた。この時の設計は、絵図としても残っている。しかしこの案は、関東郡代の伊奈半左衛門が治水上の問題を理由に強硬に反対したため、頓挫してしまった。一方で入江新田は、水不足に悩む村々から打ち壊しの訴状が提出されて、一時期は新田を見沼溜井に戻されてしまった。 徳川吉宗が8代将軍として紀州藩から江戸に入ると享保の改革が始まった。幕府の財政建て直しのための増収策として、1722年(享保7年)に新田開発奨励策が示され、新田開発が本格化した。幕府のお膝元であった武蔵国でも新田の開発が活発化した。武蔵国の東部、現在のさいたま市東部辺りにあった見沼溜井を始め、多くの灌漑用の溜井が存在したが、ここを新田として開拓することが決められた。また代用水の代わりとなる農業用水を利根川から供給することになった。吉宗に従い紀州藩士から幕臣になり、勘定吟味役格の職が与えられた井沢弥惣兵衛為永に対して、1725年(享保10年)に見沼溜井の干拓の検討が命じられた。 水不足に悩む村々がある一方で、見沼溜井を利用していた浦和領、安行領、舎人領などの村々は幕府の溜井干拓と水路建設に対して強い反対の立場をとった。井沢が現地調査を行うようになると、反対派の村々は以下の疑問点を挙げ、幕府に対して干拓事業撤回の訴状を提出した。 # 利根川から水を引くのでは余りにも遠いため、溜井より下流側の村にまで水が行き渡るか疑問である。 # 川の水は雨の多いときには豊富であるが、雨の少ない時には水量が減少する。 # 溜井の水は養分が豊富であるが、川の水は養分が少なく農作物に適さない。 また、見沼溜井に棲む竜神の化身の美女が現れ、見沼干拓の撤回を哀願するという内容の見沼の竜神などの多くの見沼に関する伝承もこの時期に作られたといわれている。 しかし、見沼溜井の干拓は決定事項であるとされ、幕府の勘定奉行名で訴訟は却下された。このため反対していた村々は負担軽減に切り替えることを余儀なくされた。1726年(享保11年)、普請役の保田太左衛門により測量が始められた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「見沼代用水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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