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会津松平家(あいづまつだいらけ)は、江戸時代に陸奥国会津を治めた松平氏の一支系で、親藩・御家門の一つ。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の四男保科正之を家祖とする会津藩の藩主家。 == 概要 == 保科正之は秀忠が乳母大姥局の侍女(浄光院)との間にもうけた子であったが、秀忠は御台所(正室)の於江与をはばかって正式の認知をせず、正之は信濃国高遠藩主保科正光の養子として育てられた。秀忠と於江与の死後、3代将軍家光は高遠藩主(3万石)となっていた異母弟の正之を取り立て、出羽国山形藩20万石を経て陸奥国会津藩23万石に封じた。 正之は将軍の実弟でありながら謙虚に身を処し、家光の信頼を受けて4代将軍家綱の後見役に立てられ、幕政に重きをなした。当初は松平姓の名乗りも固辞し続けていたが、正之死後の1696年、3代正容(正之の子)が松平を称するようになった(このため、正之から2代は松平姓を称してはいないが、正之を初代と数える)。また、正容以降「容」を通字とした(正之とその子ら(正容を含む)は保科家の通字「正」を用いた)。 秀忠の男系の血筋を伝える家の一つ(松平清武の死後は唯一の家系)だったが、7代容衆の早世により血統は断絶、以後は養子が続く。8代容敬、9代容保は美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。高須松平家は、9代藩主義和より徳川家康の十一男頼房(水戸徳川家)の血筋である。容保は幕末に京都守護職に任ぜられ、京都の治安維持に活躍したために倒幕派と敵対し、大政奉還が行われて幕府が倒壊した後、15代将軍徳川慶喜が新政府側に降伏すると、奥羽越列藩同盟の中心となって新政府軍と戦った(戊辰戦争)。1868年、容保の隠居により、家督は慶喜の弟である養子の10代喜徳に譲られるが、容保が藩主を辞していたため、会津藩は事実上の廃藩となった。同年、若松城での戦い(会津戦争)に敗北し、旧会津藩領は没収された。喜徳は新政府から謹慎を命じられた。 1869年、容保の実子の11代容大に家名存続が許され、改めて陸奥国斗南藩3万石(現在の青森県むつ市)を与えられ、知藩事となった。廃藩置県後は華族に列し、子爵を授けられた。 容大の後は、弟(容保の五男)の保男が容大の養子となって家督を相続した。保男は海軍軍人となり、巡洋戦艦伊吹艦長、横須賀海兵団長を歴任し、海軍少将まで昇進した。会津松平家の現当主は保男の孫・保久であり、現在はNHK芸能番組で管理職を務めている。 容保の次男健雄(伊佐須美神社宮司)の次男勇雄は福島県知事を三期務め、容保の六男恒雄は、外務省に入って駐米大使・駐英大使を歴任し、戦後は初代参議院議長となった。雍仁親王妃勢津子は恒雄の長女であるが、成婚前に本家当主・保男の養女となった。恒雄の子一郎は東京銀行会長。一郎の子恒孝は、1963年に徳川宗家の第18代当主を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「会津松平家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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